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2013年8月 4日 (日)

【おぼえがき】映画『風立ちぬ』感想メモ~堀田善衛さんのことばから読み解く~

目次
 第1 はじめに
 第2 制作の動機
  1 文明の終焉
  2 美しいもの
  3 尋常ならざる美は体制を滅ぼす
 第3 作品の内容
  1 閉塞感のただよう時代
  2 堀辰雄 戦争と作品
  3 切れたものの美しさ
  4 現実生活の荒廃を乗り越える
  5 小括
  6 菜穂子
  7 補足
 第4 個人的な感想
  1 巖(いわお)
  2 醜い、残酷な人間の世界
  3 世界を肯定したくてたまらない
  4 総括
 第5 おわりに――力を尽くしてこれを為せ

※ 本稿は、じぶんのためのおぼえがきです。ほかのひとには、内容が、よくわからないかもしれません。

第1 はじめに

 本稿は、スタジオジブリの映画『風立ちぬ』を見て、私が感じたこと・考えたことを、とりあえず書き留めておく、メモです。
 なぜ「とりあえず」の「メモ」なのかといえば、映画『風立ちぬ』についての資料となる書籍につき、私が、まだ全部を読めていないからです。より具体的にいえば、いま現在、私は、資料となる書籍のうち、堀田善衛さんの作品のうちの一部を読み終えただけなのです(註1)。
 でも、すべての資料を読み込んで考えてゆくとなると、あまりにも日数がかかってしまいます。そのあいだに、いま、わたしが感じていること・考えていることが、消えていってしまうかもしれません。
 そこで、「鉄は熱いうちに打て」ということで、資料も考察も不十分ながら、映画『風立ちぬ』について、私が堀田善衛さんの作品を切り口として考えたこと・感じたことを、ここに書き留めておくことにしました。

第2 制作の動機

1 文明の終焉

 では、さっそく本題に入りましょう。
 まず、「宮崎駿さんは、どんなことを考えて、この映画を作ったのか」ということから、考えてみます。そのことについて、手がかりとなる、宮崎駿さんのことばを引用します。

□ 宮崎駿『本へのとびら』岩波新書1332/岩波書店/2011.10.20/150頁
http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/43/5/4313320.html

 風が吹き始めました。
 この20年間、この国では経済の話ばかりしてきました。まるではちきれそうなほど水を入れた風船のようになっていて、前にも後にも進めない。何時破裂(註2)するのかヒヤヒヤしながら、映像やらゲームやら、消費行動やら、健康やら、犬を飼ったり、年金を心配したりして、気を散らしながら、けっきょく経済の話ばかりしてきました。不安だけは着々とふくらんで、20歳の若者も60歳も区別がつかなくなりました。
 何かが起こるだろうという予感は、みなが持っていたように思います。それでも、どんなに立派な戦争より、愚かな平和のほうが尊いと思うようにしていました。
 そして、突如歴史の歯車が動き始めたのです。
 生きていくのに困難な時代の幕が上がりました。この国だけではありません。破局は世界規模になっています(註3)。おそらく大量消費文明のはっきりした終わりの第一段階に入ったのだと思います。
 そのなかで、自分たちは正気を失わずに生活をしていかなければなりません。
 「風が吹き始めた時代」の風とはさわやかな風ではありません。おそろしく轟々と吹きぬける風です。死をはらみ、毒を含む風です。人生を根こそぎにしようという風です。

□ ニュータイプ編・スタジオジブリ監修『風立ちぬ ビジュアルガイド』角川書店/2013.7.20/87頁
http://www.kadokawa.co.jp/comic/bk_detail.php?pcd=321303000161

――男女の描き方にもこだわられたんですか?
 (中略)
――ストレートな表現もありました。
宮崎 時間がないんです。映画の時間もないんですけど、本人たちの時間もないので。切迫した時代に生きた人たちは皆、そうだったんじゃないですか(註4)。これからそういう時代が来ます。だから、作る意味があると思ってやりました。

 このように、宮崎駿さんは、「いま自分たちが暮らしている文明が、終わりを迎えはじめた」と考えているようです。

2 美しいもの

 その考えに基づいて、文明の終焉に向き合うために、宮崎駿さんが描いた『風立ちぬ』。その映画をめぐるキーワードのなかで、私の目をひいたもの。それは、「美しいもの」ということばでした。

□ 「宮崎駿3万字インタビュー」雑誌CUT2011年9月号/通巻290号/ロッキング・オン/2011.9.19/19頁
http://ro69.jp/product/magazine/detail/56388

 いや、これは多分オフレコにしなきゃいけないと思うんですけど、戦争の道具を作った人間の映画を作るんですけど、スタッフにも女房にも『なんでそんな映画を作るんだ?』って言われて。俺もそう思うんですけど(笑)。だけど、歴史の中で生きるということはそういうことだと思うんですよ。それが正しいとか正しくないじゃなくて。その人間がどういうふうに生きたかっていう意味ではね。その男はその時の日本の、もっとも才能のあった男なんです。でも、ものすごく挫折した人間なんです。物造りを全うできなかったから、敗戦の中でね、ずたずたになってったんですよ。でも僕は彼が『美しいものを作りたかった』ということをポツっと洩らしたということを聞いてね、『これだ!』と思ったんです。
 だからそうなんです、なんでこんなもん作ったんだろうと思ったの。美しいものを作りたいという動機がないと、作れないもんですよ。兵器を作ってないんです、この男は。その動機が結果的に、美しいものを作ったけど、それが高性能の武器だったという。ある意味では悲劇の主人公なんですよ。そういうふうに、技術者の生涯を考えると、ことの善悪は政治の世界が決めてることで、その人は精いっぱいやったのに挫折してるんです。だから非常に無愛想な、嫌なじじいとして生涯を終えるんです(笑)。けんもほろろのクソじじいになって終わってるんですよ。それも含めてね、どういう煌めく才能だったんだろうっていうのに、興味があったんです。だから、作ってみなきゃわからないですね。

□ 映画『風立ちぬ』企画書(映画パンフレットに掲載)

 大正時代、田舎に育ったひとりの少年が飛行機の設計者になろうと決意する。美しい風のような飛行機を作りたいと夢見る。
 やがて少年は東京の大学に進み、大軍需産業のエリート技師となって才能を開花させ、ついに航空史にのこる美しい機体を造りあげるに至る。三菱A6M1、後の海軍零式艦上戦闘機いわゆるゼロ戦である。1940年から3年間、ゼロ戦は世界に傑出した戦闘機であった。
 (中略)
リアルに、
  幻想的に
    時にマンガに
     全体には美しい映画をつくろうと思う

 このように、宮崎駿さんは、『風立ちぬ』の主人公である堀越二郎を、「美しいものを作りたい」という動機を持った人物として、描いています。そして、二郎が「美しい飛行機」である零戦を作った時代を、日本が「太平洋戦争での敗戦」という破局へ向かって突き進んでゆく時代として捉えているようです。
 その二郎を描いた宮崎駿さん自身も、「美しい映画を作りたい」と企画書に書いています。そして、その宮崎駿さんは、自分の生きている、現代の文明が、終焉を迎えつつあると感じている。
 映画の登場人物と、その映画監督の姿が、重なって見えてきますね。ふたりとも、自分の生きた時代が破局・終焉を迎えつつある中で、美しいものを作ろうとした、という点で、共通しています。

3 尋常ならざる美は体制を滅ぼす

 その共通点について考えるとき、私の脳裏に、堀田善衛さんのことばが浮かんできます。

□ 堀田善衛『めぐりあいし人びと』集英社文庫/ほ-1-16/集英社/1999.9.25/178頁
http://books.shueisha.co.jp/CGI/search/syousai_put.cgi?isbn_cd=4-08-747102-0&mode=1

 話は少々とびますが、この間、私はNHKで話したときに、今年(文庫注、1992年)アルベールビル・オリンピックでの旧ソ連のペア・ダンスのスケート・シーンを流して、その画面の上に「久方の光のどけき春の日に しづ心なく花の散るらむ」という歌をのせてもらいました。何とも奇妙な取り合わせに感じるかもしれませんが、あのペア・ダンスの美しさたるや言語を絶するもので、あの美しさに相対することができるのは、『古今集』『新古今集』の世界しかないだろうと思ったのです。
 逆に言えば、あれだけの美しさをつくり出してしまったら、その体制は滅びるしかないということです。あのペア・ダンスを見ながら、この美しさは、旧ソヴィエト・ユニオンに対する弔歌、あるいはエレジーなんだなと、つくづく思いました。同様に、『新古今集』は、平安文化を葬り去って、馬に乗った鎌倉の機動部隊を引っ張り出したわけです。
 もっと卑近な例でいえば、竹久夢二が軍国主義を呼び出したともいえます。あの頽廃的な、浮世絵を超えるほどの美しさをつくられたら、大正デモクラシーなど、ひとたまりもなく滅びてしまう、昭和の軍国主義を呼び出した。つまり、美というもの、あるいは歴史というものをそういうものとして見るべきものだと、私は思っているわけです。夢二自身は反体制的な人だったのですが。
 そうした感覚というのは、私にはかなり早くからあって、若いころに、ナチのレニ・リーフェンシュタールのベルリン・オリンピックについての『美の祭典』という映画を観たとき、これだけ見事なものをつくってしまったら、この体制は遠からず滅びるだろうと思ったものです。ですから、美、政治、歴史といったものを、それぞれ分離せずに一つのものとして考えることで、見えない部分が見えてくるということです。そういう方法が、私の歴史に対する一つの接し方だと思っています。

※ 堀田善衛『時代と人間』徳間書店/2004.2.29/210頁にも同じ趣旨の記述があります。
http://www.tokuma.jp/book/bungei/1176093861875

 このように、堀田善衛さんは、「尋常ならざる美は体制を滅ぼす」と考えているようです。
 この考え方を、映画『風立ちぬ』にも、当てはめて解釈することができるのではないか。そう私は考えています。
 二郎の作った美しい飛行機・零戦が登場したことによって、日本が滅びた。そういう歴史観を秘めて、宮崎駿さんは、この映画を作ったのではないでしょうか。実際に、劇中では、最後の場面で、カプローニが零戦を見たうえで、二郎に「国を滅ぼしたんだからな」と声をかけています。
 さらにいえば、宮崎駿さん自身も、美しい映画である『風立ちぬ』を描くことによって、現代文明の終焉を飾ろうとしたのではないか。そう私には思えるのです。

 以上、宮崎駿さんが映画『風立ちぬ』を描いた動機について、私なりの仮説を書いてみました。
 次の項では、その仮説をふまえて、映画『風立ちぬ』の具体的な内容について、とくに堀越二郎という登場人物について、考えてみます。

第3 作品の内容

1 閉塞感のただよう時代

 映画『風立ちぬ』で宮崎駿さんが描いた、二郎の生きた時代。それは、閉塞感のただよう時代(前掲「企画書」より)でした。
 その時代に、具体的には、どんな出来事があったのか。その出来事について、映画のパンフレットには、年表が付いています。その年表から、劇中の二郎が生まれてから、零戦の試作機を作って飛ばすまでの間に起こった出来事を、拾い上げてみます。
 恐慌。大震災。治安維持法。満州事変。五・一五事件。国連からの脱退。
 そして、二郎が零戦の試作機を飛ばして以降、第二次世界大戦、そして太平洋戦争が勃発します。
 このような時代のなかで、二郎は生きていたのです。

2 堀辰雄 戦争と作品

 では、二郎は、この時代に対して、どのように向き合っていた人物だったのか。このことについて、手がかりになる、宮崎駿さんの発言があります。堀辰雄さんについての発言です。

□ 宮崎駿・半藤一利「『風立ちぬ』戦争と日本人」文藝春秋2013年8月号/文藝春秋/2013.8.1/103頁
http://gekkan.bunshun.jp/articles/-/803

宮崎 堀さん(みずうみくじら注、堀辰雄さんのこと)のエピソードでひとつ印象に残っているものがあって、戦時中、堀辰雄のところに集まった若い文学仲間に、戦後の希望は社会主義的なヨーロッパ連合を作ることにしかないんじゃないかと話していたというんです(註5)。堀辰雄が戦時中に書いたものを読むと、戦争のせの字もないし、およそ政治的なことはほとんど文章には書かなかったけれど、やはり、あの時代を真剣に生き、ちゃんと考えていたんだな、と思ったんです。

 堀辰雄さんは、あの時代を真剣に生き、ちゃんと考えていた(註6)。しかし、その作品には、戦争のせの字もないし、およそ政治的なことは、ほとんど文章には書かなかった。
 そういう人物として、堀辰雄さんのことを、宮崎駿さんは捉えています。そんな堀辰雄さんの姿は、劇中の二郎にも、重なってきます。
 二郎は、あの時代を真剣に生き、ちゃんと考えていました。彼は、夜中に親の帰りを待つ、お腹を空かせた子どもたちの姿を見て、「この国はどうしてこう貧乏なんだろう」と呟いています。さらに、軽井沢では、ドイツ人であるカストルプと、満州事変のこと、国連脱退のこと、そして将来おこるかもしれない戦争のことについて、会話を交わしています。
 しかし、彼の作品である零戦の製作にあたっては、その自主的研究会のなかで、「ただ一寸重くなるんだ。機関銃をのせなければ、なんとかなるんだけどね」と、本音をもらしています。戦闘機であるにもかかわらず、「銃が邪魔」だと彼は考えているのです。彼の頭の中にある「美しい飛行機」には、戦争のせの字もなかったようですね。

3 切れたものの美しさ

 戦争のせの字もない、すなわち目前にある戦争とは関係のない、美しいものをつくること。そのことについて、堀田善衛さんは、つぎのようなことばを残しています。

□ 前掲『時代と人間』29頁

『新古今集』を開くと、この頃の和歌というものは、文学による文学である。『万葉集』も含めて、『古今集』その他いろいろな歌集の歌から二つぐらい句を取ってきて、それにバリエーションをつけることがある。詩による詩、文学による文学、あるいは『源氏物語』から一節なり二節なりを取り出してきてつくる。芸術至上主義ということばがあるが、つまりこれは文学至上主義みたいなものである。したがって、いままで述べたような、大火とか、戦闘とか、飢饉とか、地震とか、源平が交代するとか、そういうこととはほとんど関係がないのである。この関係のなさ、切れ方のみごとさは、あきれたものだといえばあきれたものである。よくもまあこれまで切れていって平気だったものだ、というふうにも思われる(註7)。
 切れたものの美しさなのである。「春の夜の夢」とか「夢の浮き橋」というようなことばがあるが、ほんとうにそういうものだった。

 切れたものの美しさ。このことばは、「目前にある戦争とは関係のない、美しいもの」をつくった、堀辰雄さん、そして劇中の二郎にも、当てはまるのではないか。さらにいえば、宮崎駿さんは、この堀田善衛さんのことばを意識して、堀辰雄さんの作品を読み、堀越二郎という人物を考え出したのかもしれない。そう私は想像しています(註8)。

4 現実生活の荒廃を乗り越える

 しかし、「現実から切れた、美しいものをつくる」といっても、ひとのからだは、現実から離れることはできません。ひとは、現実に直面した困難を、乗り越えてゆかねばならないのです。そのことについては、堀田善衛さんが、堀辰雄さんを偲ぶ文章のなかで、こう書いています。

□ 堀田善衛「堀辰雄のこと」『堀田善衛集』戦後文学エッセイ選11/影書房/2007.4.25/33頁
http://www.kageshobo.co.jp/main/mokuroku/sengobungaku/kakukannaiyou.html#essey-hotta

 こんな訳で、私自身は、堀氏と直接会って話したことは、1回30分ばかりの訪問と、成宗の町筋の裏側にある森や田んぼ付近で数回すれちがったという、それくらいしかないのであるが、氏の若い(氏は「友人」といわれている)「友人」たちとはかなり親しかったといってもいいと思う。葬儀場で、私は矢張り十数年前の知り合いである野村英夫君に会えるか、と思って心待ちに待っていた。野村君は、当時私がつとめていた国際文化振興会に欠員がないだろうか、と、堀氏の紹介状をもって来られたのであった(註9)。野村君と就職、何か私はこの二つが、一向にむすびつかないような、むすびつけると痛ましいから、なるべくそのことは考えたくないような、そういう妙に入り組んだものを感じさせられた。そして、そういう現実生活に投げ込まれるには、あまりに繊細すぎるような、そういう何かしら痛ましいようなもの、そんなものの影が、堀氏の若い「友人」たちのうちで私の知っている人々には、一様にともなっていた。そういう影のようなもの、それは私にも充分にわかるものである。殊に戦争中であり、誰もがいつどういう運命におとし入れられるかわからない頃のことであった。十分にわかるつもりではあったが、私には、そういう繊細さそのものが、どうにもやりきれぬ気持ちを起こさせることが多く、彼らが堀氏の指導でリルケやホフマンスタールを読み出せば、こっちはバルザックを読む、というふうに反撥した。私の考えでは、堀氏は、本当はそういう影のようなものに執着する人ではなく、恐ろしく丈夫な、そして現実生活のどんな荒廃にも堪え、かつ勇敢に乗り越えてゆく人、というふうに思えたのであった。震災のときに隅田川を泳ぎ切られた、という話を聞き、そうだ、その通りだ、と思ったことがある。
 野村英夫君は、ずっと前に死んでいた。誰にも訊ねなかったが、私にはそれがよくわかった。
 先に、近所、ということをいったが、実際にも隣近所であり、かつ友人知己を通じて近所であり、また私自身の内心においても、そうであった。早く出征した友人たちから、堀さんの新しい本が出たらしいが、送ってくれないか、という手紙を3通ほど受取った記憶がある。送り先は、中国の奥地、ビルマ、それからもう一つどこだったかどうしても思い出せない。この三人とも戦死してしまったが。そういう人たちにとっても、堀氏は「近所の人」だったのである。堀氏は、戦争中の、ある種の青年の心にとって、「近所の人」であった(註10)。
 (中略。以下35頁)
 試みに――どの本でもいいのだが――角川版作品集の『晩夏』をとりあげてみよう(註11)。
 「生きんとする劇的な悦び」(Ombra di Venezia)
 「私は病床にあって……いかにも赫しい、充実したような日々」(ゲエテの『冬のハルツに旅す』)
 「生の悦び」(晩夏)
 そういう正面切った言葉が、いくつも見出される。昭和12年から20年までの、8年にわたる戦時に20歳代をもった私および私の友人知己が、堀氏をつねに、近所の人、と考えて来た理由のうち、根本的なものは、あのいつどうなるのかもわからなかった日々に、底深く「生の悦び」がどこに、どんな形でありうるものか、をことば少ない端正な文章で声低く、どもりがちに語りつづけられたことにあるのだと思う。
 その頃、およびいまでも私は、死を通して見た生、とか、死の陰画としての生、とか、死に照らし出された生、とかといういい方で堀氏の文学を語ることを嫌う。そんなことをいってなんになるか、という気がするのである。
 堀氏は、乱世に生きる日本の文学者の伝統に深く根を下しているということを、その一つの典型にちかいということを、もっと作品に即して書きたかったのだが、こういうことになってしまった。

 現実生活のどんな荒廃にも堪え、かつ勇敢に乗り越えてゆく人。それが、堀田善衛さんの抱いた、堀辰雄さん像でした。
 その堀辰雄さん像は、劇中の二郎にも、私には重なって見えてきます。二郎は、震災のとき、骨折した絹江を背負って上野の山に避難して、さらに、菜穂子の手をひいて、彼女の家まで送り届けました(註12)。その場面から、私が連想したもの。それは、「震災のとき、隅田川を泳ぎ切った」という堀辰雄さんの挿話でした。堀辰雄さんと同じく、二郎も、現実生活のどんな荒廃にも堪え、かつ勇敢に乗り越えてゆく人だった、といっていいのではないでしょうか。
 この重なりは、偶然ではないのではないか。すなわち、宮崎駿さんは、この堀田善衛さんによる堀辰雄さん像をふまえて、二郎という人物を描いたのではないか。そう私は感じています。

5 小括

 以上、本項において、私が書いてきたことを、まとめてみます。
 劇中の二郎は、どのような人物だったのか。
 閉塞感のただよう時代に、その時代を真剣に生き、時代を見つめ、ちゃんと考えていた。
 そして、現実生活のどんな荒廃にも堪え、それを勇敢に乗り越え、菜穂子と「生の悦び」をかみしめて、現実から切れた、すなわち荒廃の投影していない、美しいものをつくった。
 二郎は、そのような人物だったのではないでしょうか。

6 菜穂子

 以上、私は、本項において、二郎のことばかり、書いてきました。
 しかし、本項において、二郎について私が述べてきたことは、菜穂子にも、当てはまるのではないでしょうか。
 菜穂子の場合、彼女が直面した現実は、「結核による死」でした。その現実に直面したとき、彼女は、高原病院においてひとりきりで暮らすことによる延命よりも、二郎と結婚して、ほんとうに束の間の夫婦生活のなかで、彼と「生の悦び」をかみしめることを選びました。
 零戦の完成を見届けて、菜穂子は、満開の桜の下、ひとり高原病院へと去ってゆきます。彼女を追おうとする加代を、黒川夫人が呼び止めます。そして、黒川夫人が、菜穂子の思いを、代弁します。
「美しいところだけ、好きな人に見てもらったのね…」
 菜穂子もまた、現実生活の荒廃、すなわち結核による死を、勇敢に乗り越え、死の投影しない、美しい姿で生き抜いた人物だった。そう言えるのではないでしょうか。
 正直に言えば、私は、個人的には、「二郎のつくった零戦よりも、菜穂子の花嫁姿のほうが、さらに美しい」と感じました。

7 補足

 ここまで、私は、掘田善衛さんのことばを切り口にして、映画『風立ちぬ』のことを、そして二郎と菜穂子のことを、考えてきました。
 しかし、この切り口だけでは、触れることのできなかったものがあります。
 少年のころに抱いた夢へ向かって、ひたむきに学びつづけ・働きつづけ、美しい飛行機をつくった、二郎の姿。
 じぶんに残ったわずかな命を、精一杯に生き抜いた、菜穂子の姿。
 そして、そんなふたりのあいだに通った、真心のこもった愛情。
 これらについて、本稿では、十分には触れることができませんでした。いま、なにか書こうにも、いい切り口がなくて、書けば書くだけ野暮になってしまいそうなので、本稿では、これ以上は、触れないことにします。
 これらについての切り口としては、堀辰雄さんの作品群を読み込めば、なにかをつかむことができるのかもしれません。その手がかりとなる、宮崎駿さんのことばを、引用しておきます。

□ 前掲『風立ちぬ ビジュアルガイド』87頁

――男女の描き方にもこだわられたんですか?
宮崎 それがなかったら、人生は面白くないですからね。しっかり描かなければいけないし、堀辰雄の小説「風立ちぬ」「菜穂子」「美しい村」「晩夏」……「晩夏」っていう小説はものすごく好きなんですけれど、そういう作品群がものすごく大きな支えになりました。「ストーリー」ではなく、「支え」になりました。

第4 個人的な感想

 ここまで本稿で述べてきたことをふまえて、ごく個人的な感想を、書き留めておきます。

1 巖(いわお)

 宮崎駿さんは、NHKによるインタビューに答えて、映画『風立ちぬ』について、こう語っています。なお、録画せずに、その場で書き留めたので、若干、不正確な引用です。

□ NHKニュース9(2013.7.15放送)

 どんな時代がきても、その時代に生きた人々が、「こういう映画を観たかった」と思うような映画をつくりたい。

 この宮崎駿さんのことばを受けて、私は、こう感じています。
 いまの時代を生きる人間として、『風立ちぬ』のような映画が観たかった。
 いまの時代に、この映画を観ることができて、よかった。
 映画『風立ちぬ』において、宮崎駿さんが、二郎と菜穂子の姿を通して、いまの時代を生きるための、ひとつの道しるべを、示してくれた。そのように、私は感じています。
 生きるための道しるべ。そのことについて、宮崎駿さんは、堀田善衛さんを評して、こう書いています。

□ 宮崎駿「堀田善衛 三作品の復刊によせて」『折り返し点』岩波書店/2008.7.16/367頁
http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/02/1/0223940.html

 堀田さんは
 海原に屹立している
 巖のような方だった
 潮に流されて 自分の位置が
 判らなくなった時 ぼくは
 何度も 堀田さんにたすけられた

 私には、映画『風立ちぬ』における二郎と菜穂子の姿が、そして二人を描いた宮崎駿さんの姿が、海原に屹立している巖のように見えています。

2 醜い、残酷な人間の世界

 しかし、映画『風立ちぬ』について、私には、すこし、気になっていることがあります。
 それは、映画『風立ちぬ』に登場した二郎と菜穂子が、あまりにも理想的な・あまりにも美しい人物だった、ということです。
 このことについて、関連する文章を、引用します。この文章は、堀田善衛さんが70歳のころに、堀辰雄さんについて書いたものです。なお、前に引用した「堀辰雄のこと」は、堀田善衛さんが35歳のころに書いた文章でした。35年を経て、堀田善衛さんの堀辰雄さんへの評価が、肯定的なものから、否定的なものへ、変わっています。

□ 堀田善衛「バルセローナにて」『バルセローナにて』集英社文庫/ほ-1-10/集英社/1994.10.25/183頁
http://books.shueisha.co.jp/CGI/search/syousai_put.cgi?isbn_cd=4-08-748228-6

 1936年、すなわち昭和11年という年は、すでに半世紀を越した過去になっているけれども、それはまさに20世紀中期の、激動期の開始点であった。その年の2月26日は、いわゆる2・26事件と呼ばれる、日本軍隊の叛乱事件があり、やがて日中戦争が泥沼のように果てしなく拡大をしていく、その前年にあたっていた。そうしてヨーロッパでは、前年の6月にフランスに人民戦線が結成され、36年2月にはスペインに人民戦線政府が成立していた。このスペインの人民戦線政府には、共産党とともにアナーキストまでが入閣をしていた。無政府主義者が政府構成の一員となるとは、これは古今未曾有のことであった。
 ヒトラーのナチ・ドイツにおいて、一体何が行われているのであるかは、漠然としかわかっていなかった。ナチ・ドイツを友邦視していた当時の日本の権力者たちが報道管制を敷いていたせいである。景気のいい、日本の軍部にとって都合のいい話だけが伝えられていた。けれども、ポール・ヴァレリイ(註13)の『方法的制覇』という論文の翻訳によって、そこに科学技術と軍事、経済、産業、それに宣伝という新しい人心操縦技術等々を、有機的に綜合した、政治の「方法的制覇」が着々として進行し、何やら無気味なものが前途に、黒々として待ち構えている、と私などには受け取られていた。
 (中略。以下185頁)
 この運命的な1936年に関して、もう少しのことを付け加えておけば、11月にはナチ・ドイツとファッショ・イタリアがフランコ政権を承認し、英国とフランスその他の民主主義的な諸政府は、スペイン内乱への不干渉と武器禁輸を決定していたのである。ソヴェトはすでに共和国政府に軍顧問を派遣し、武器援助をしていた。
 アメリカを含む西欧の多くの知識人にとって、この不干渉協定は、政治と政治家たちの臆病さと偽善性そのものと見えた。この不干渉協定こそが、逆に、多くの国際的な志願兵を呼び寄せることとなり、国際義勇兵旅団の結成をうながしたものであった。アメリカもが、やがてスペインへの武器禁輸を実施した。そのために、アメリカからも多くの義勇兵たちがスペインへと、おそらくはアメリカでの法律を無視して、渡って来たのである。
 (中略。以下186頁)
 また、この同じ11月に、日本とドイツは、日独防共協定なるものを締結していた。日本軍が南京を攻撃して、南京大虐殺事件なるものを惹き起こしたのは、その翌年の12月のことであった。無教養な軍人たちが、政治も経済も、文化、教育をも支配しはじめていた。そうして、次第に息が詰まってくるようなこの年の秋に、堀辰雄の『風立ちぬ』という、抒情性の強い作品が発表されて、生きがたい思いをしていた若者たちに、

 風立ちぬ、いざ生きめやも。
 Le vent se leve, il faut tenter de vivre.

 という、ヴァレリィの詩句とともに、一種異様な抒情的な息吹きを、溜息のようにして若者たちに吐かせたものであった。それは一種の、抒情と自己感傷の陥し穴か罠のようなものであった(註14)。

 この堀田善衛さんによる文章をふまえて、私が映画『風立ちぬ』について思うこと。それは、このようなことです。
 少年のころに抱いた夢へ向かって、ひたむきに学びつづけ・働きつづけ、美しい飛行機をつくった、二郎の姿。
 じぶんに残ったわずかな命を、精一杯に生き抜いた、菜穂子の姿。
 そして、そんなふたりのあいだに通った、真心のこもった愛情。
 これら、映画『風立ちぬ』において宮崎駿さんが描いた、美しいものは、抒情の世界にだけ・感傷の世界にだけ、存在するものなのではないか。逆にいえば、現実の世界には、存在しないのではないか。
 現実の世界は、社会人として5年超を過ごしてきた私の実感では、私自身も含めて「醜い、残酷な世界」でした。そのことについては、前稿(註15)で書きました。本稿でも、そのことについて堀田善衛さんが書いたことばを、あらためて引用しておきます。

□ 堀田善衛『ゴヤ』第1巻/集英社文庫/ほ-1-22/集英社/2010.11.25/260頁
http://books.shueisha.co.jp/CGI/search/syousai_put.cgi?isbn_cd=978-4-08-746638-6&mode=1

 彼がこれから生きて行く人生と世界は容易なものではない。世間も、たとえば宮廷といえども、バロック風でもロココ調でもありえないであろう。醜い、残酷な人間の世界なのである。「私はそれを見た」(Yo lo vi)として見ていかなければならぬ……。

 そんな醜い、残酷な人間の世界では、二郎や菜穂子のように生きることは、できないのではないか。このことを、より具体的に書くと、つぎのような、みっつの疑問文になります。
 二郎のように努力しても、結局は、挫折してしまうのではないか。美しいものをつくることは、できないのではないか?
 菜穂子のように美しく生きようとしても、結局は、じぶんの醜い部分を、露呈してしまうのではないか?
 そして、二郎と菜穂子の間に通った、真心のこもった愛情も、現実の人間たち、すなわち醜く残酷な人間たちの間には、成立しないのではないか?
 このような疑問が、映画『風立ちぬ』の美しさに感銘を受けた後で、わたしのなかに芽生えてきました。
 しかし、その疑問に対しては、宮崎駿さんに、このようなことばがあります。映画『千と千尋の神隠し』についての発言です。

□ 宮崎駿『風の帰る場所』ロッキングオン/2002.7.19/341頁
http://ro69.jp/product/book/detail/25732

 よく、一番最初の場面で、もしも千尋の横にハクが来なかったらあの子はどうなったんだ?っていう質問をする人もいます。多くの人は、一番困ってるときに誰も助けに来なかったというね、そういう人生を生きてることが多いんだから(笑)。だけど、そこで千尋には来たわけですよね。だから、『千と千尋』っていうのは、それを受け入れることができる人たちの映画なんですよ。まあ、世の中生きてると、そういうこともあるわなんていうね。それまで疑ってかかる人のための映画じゃないですよ。その範囲で自分で限定して作ったから、完成することのできた映画なんです。それは『コナン』を作ったときにね、海岸に流れ着いた娘がすごいブスだったら、コナンはどうしたんだろうって言う奴がいるけど、だったら、あなたはそういう映画を作りなさい、私は作りたくありませんっていうね。だから、まあ『千と千尋』の場合もそうなんですよね。なんであそこでハクが助けに来るの?って、実際でもそういうことは起こってるんであって、ただ気がついてないだけなんじゃないかって、僕なんか思ってますけど。閉ざしていれば気がつかない。だから、自分が観客として設定した子供たちが『千と千尋』を観てどういうふうに受け取ってくれたかっていうのは、正直に答えてくれるはずがないからわかりませんけども、でもなんかそういうものを受け入れてくれたらいいなあって思ってます。

 この文章のなかにある、「海岸に流れ着いた娘がすごいブスだったら」という疑問文を、私が先ほど書いた、みっつの疑問文に置き換えても、宮崎駿さんからは、同じ答えが返ってくるのではないでしょうか。「だったら、あなたはそういう映画を作りなさい、私は作りたくありません」。映画『風立ちぬ』も、それまで疑ってかかる人のための映画ではないのでしょう。そう私は感じています。

3 世界を肯定したくてたまらない

 では、そもそも、なぜ、宮崎駿さんは、理想的に美しく生きる二郎や菜穂子の姿を、疑うことなく描いたのでしょうか。
 そのことについて、手がかりとなる、宮崎駿さんの文章があります。

□ 宮崎駿「日本のアニメーションについて」『出発点』徳間書店/1996.7.31/100頁
http://www.tokuma.jp/book/tokumabooks/1176093940061

 日本最初の本格的長編色彩漫画映画「白蛇伝」が、公開されたのは1958年である。その年の暮れ、場末の三番館で、高校3年の受験期のただ中にいたぼくは、この映画と出会ってしまった。
 どうも気恥ずかしいうちあけをしなければならない。ぼくは漫画映画のヒロインに恋をしてしまった。心をゆさぶられて、降り出した雪の道をよろめきながら家へ帰った。彼女たちのひたむきさに較べ、自分のぶざまな有様が情けなくて、ひと晩炬燵にうずくまって涙を流した。受験期の鬱屈した心理とか、発育不全の思春期とか、安っぽい三文メロドラマとか……。分析するのも片づけるのも簡単なのだが、未熟なそのときのぼくには、「白蛇伝」との出会いは強烈な衝撃を残していった。
 マンガ家を志望して、流行の不条理劇でも描こうとしていた自分の愚かさを思い知らされたのだった。口をつく不信の言葉と裏腹に、本心は、あの三文メロドラマの安っぽくても、ひたむきで純粋な世界に憧れている自分に気づかされてしまった。世界を肯定したくてたまらない自分がいるのをもう否定できなくなっていた。
 それ以来、ぼくは真面目に何を作るべきか考えるようになったらしい。少なくとも、恥ずかしくても本心で作らねばダメだと、思うようになっていた。

□ 前掲『風の帰る場所』21頁

 今はニヒリスティックになるのが一番簡単な世の中なんですよ。そう思いません?
 誰でもそういうものを持ってるしね。それが実に浅かろうが深かろうが――たぶん、大抵浅いだろうと思うんですけどね――そのニヒリスティックになったり、ヤケクソになったり、刹那的になるってことを、今、僕は少しも肯定したくないんですよ。たとえ、それが自分の中にどんなにあってもね、それで映画を作りたいとは思わないんです。それは自分に対する敗北ですよ。あのー、自分の日常生活がどれほどバカげてて、もし自分の車に機関砲がついてたら周り中を撃ちまくりながら走ってるだろうと思っても。
 思ってもですよ、それをただ放出するために作品を作るんじゃないんじゃないかと思います。だから、自分が善良な人間だから善良な映画を作るんじゃないですよね。自分がくだらない人間だと思ってるから(笑)、善良な人が出てくる映画を作りたいと思うんです。
 やっぱり人間みんな同じだよって言うんじゃなくてね、その善良なこととかですね、それから、やっぱりこれはあっていいことだとか、優れてる人がいるんじゃないかとか、自分の中じゃなくても、どっかにそういうものがあるんじゃないかと思う気持ちがなかったら、とても作品を作れないわけですよね。
 それは、例えば、子供がある肯定的なものに作品のなかで出会ったときに、こんな人いないよとか、こんな先生いないよとか、こんな親はいないよって言っても、そのときに『いないよね』って一緒に言うんじゃなくて、『不幸にして君は出会ってないだけで、どこかにいるに違いない』って僕は思うんですよ。なぜ思うんだかよくわからないんですけどね。それは1941年生まれのせいだとかね(笑)、いろんなことでそんなイデオロギー暴露をする人がいますけども。でも、やっぱり僕は自分がくだらなくても、くだらなくない人はいると思ってますから。だから、そこを拠り所にして映画を作ってますけどね。

□ 前掲『風の帰る場所』344頁

――(笑)だから、やっぱり世界を肯定したいんだ、センチメンタリズムを肯定したいんだっていうスタート地点にいた宮崎駿さんが、そのあいだにいろんなことがありつつも、またそこに戻ってきて。それでも世界を肯定するんだっていうところにきてますよね。

 ええ、そうですね。だからそれはもう、実は『白蛇伝』観たときからそうなんですよね。もう繰り返し繰り返しなんです。出発点がそこなんですよ。なんか作りたいと思ってたけど、なにを作っていいんだかわかんなかった自分が、一番バカにしてたはずのメロドラマを観てガ~ンとなったという、これは素直に認めるしかないんじゃないかと思ってね。じゃあ、同じもんを作るかっていうことではなくて、ややこしいことやいろんなことも入れてますけど、でも基本にあるのはそれなんだっていう。それが、自分が映画を作りたいと思った出発点なんだから。だから、どうも山手線みたいなもんでねえ、遙か遠くまで来たと思ったら、ただぐるぐる回ってただけで、新宿にまた来たっていうような感じもあるんですよ。しかも、今はさらにそういったことがはっきりとした形で試されるときだと思うんです。映画を初めとして、あらゆるものが、現代っていうものの終焉に対してどう向き合うかっていうことを試されてると思うんですよね。

 ひたむきで純粋な世界に憧れている。
 世界を肯定したくてたまらない。
 自分がくだらない人間だと思っているから、善良な人が出てくる映画を作りたい。
 人間みんな同じだと言うのではなく、その善良なこととか、やっぱりこれはあっていいことだとか、優れてる人がいるんじゃないかとか、自分の中じゃなくても、どっかにそういうものがあるんじゃないか。
 そうした思いが、宮崎駿さんの、映画監督としての出発点であるようです。
 そして、そうした思いは、映画『風立ちぬ』にも、通底している。そう私は感じます。
 いくら現実生活が荒廃していても、現実が醜く残酷な人間の世界であっても、映画『風立ちぬ』に描いたような、美しいものが、世界のなかに・人間のなかに、あるのではないか。そう宮崎駿さんは、信じているのではないでしょうか。
 そうした宮崎駿さんの思いに、私も共感します。
 少年のころに抱いた夢へ向かって、ひたむきに学びつづけ・働きつづけ、美しい飛行機をつくった、二郎の姿。
 じぶんに残ったわずかな命を、精一杯に生き抜いた、菜穂子の姿。
 そして、そんなふたりのあいだに通った、真心のこもった愛情。
 そうしたものが、世界のなかに・人間のなかに、あるのではないか。そのことを、いくら現実生活が荒廃していても、たとえ一生みつからなくても、私も信じて生きていきたい。そう私は思います。

4 総括

 以上、本稿に書いてきたことをまとめて考えてみると、『風立ちぬ』は、ふしぎな映画ですね。
 全体としては、文明の終焉を飾るはずの映画が、個々の観客に対しては、生きて行くための励ましを送る映画になっています。
 相反するはずのメッセージが合わさり、昇華して、ひとつの映画として完成しているのです。
 とても美しい映画でした。

第5 おわりに――力を尽くしてこれを為せ

 荒廃した現実生活を乗り越えて、美しいものをつくった・美しく生きた。
 そんな二郎や菜穂子のように生きてゆくには、たいへんな努力が必要です。いくら努力しても、達成できないかもしれない。それほどに、宮崎駿さんが映画『風立ちぬ』で描いた、ふたりの姿は、高々とした目標として、私には見えています。それこそ、まるで地上から見上げる、ひこうき雲のようです。
 だからこそ、作品中に、「力を尽くして生きなさい」という言葉が、出てくるのでしょう(註16)。
 私自身の現実生活での自堕落さ・学問のなさ・実力のなさを考えるとき、このようなことを書くのは、たいへん面映ゆい思いがするのですが、でも、書かないと、この映画を観た意味がなくなってしまうので、あえて書いておきます。
 私も、力を尽くして、生きてゆきます。
 最後に、力を尽くして生きることについての、堀田善衛さんのことばを引用して、本稿のしめくくりとします。

□ 堀田善衛「創世記と伝道の書」『天上大風』ちくま学芸文庫/ホ-3-4/筑摩書房/2009.12.10/163頁
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480092649/

 かくて、都ては空の空であって、それが空の空であればこそ、それ故にこそ、

  汝往て喜悦をもて汝のパンを食ひ、楽き心をもて汝の酒を飲め。其は神久しく汝の行為を嘉納たまへばなり。汝の衣服を常に白からしめよ。汝の頭に膏を絶しむるなかれ。日の下に汝が賜はる、この汝の空なる生命の間、汝その愛する妻とともに、喜びて度生せ。汝の空なる生命の間、しかせよ。是は汝が世にありて受くる分、汝が日の下に働ける労苦によりて得る者なり。凡て汝の手に堪ることは、力をつくしてこれを為せ。其は汝の往んところの陰府には、工作も計謀も知識も智慧も、あることなければなり。

 こういうところを、仏教のお経をでも読むようにして読誦していると、口のなかまでが甘くなって来るように思う。元気も出て来るのであった。凡て汝の手に堪ることは、力をつくしてこれを為せ……。
 (中略)
 伝道の書の、徹底的な虚無感につらぬかれた、いわば甘美なキリスト教というものは、もっと敷衍をしてみると、果してどういうことになるものであろうか。
 ともあれ私には、この伝道の書は、浩瀚な聖書中の諸々の文章のなかでも、もっとも美しい、至美なものと思われる。

註1 資料となる書籍のうち、まだ私が読んでいないものを、以下、列挙しておきます(作者名50音順。同じ作者なら出版年月日順)。
 ヴィクトール・E・フランクル『夜と霧』みすず書房/1985.1.22
http://www.msz.co.jp/book/detail/00601.html
 サン=テグジュペリ『人間の土地』新潮文庫/サ-1-2/新潮社/1955.4.10
http://www.shinchosha.co.jp/book/212202/
 サン=テグジュペリ『夜間飛行』新潮文庫/サ-1-1/新潮社/1956.2.22
http://www.shinchosha.co.jp/book/212201/
 半藤一利・宮崎駿『半藤一利と宮崎駿の腰ぬけ愛国談義』文春ジブリ文庫/文芸春秋/2013.8.16
http://www.bunshun.co.jp/cgi-bin/book_db/book_detail.cgi?isbn=9784168122019
 堀越二郎『零戦 その誕生と栄光の記録』角川文庫/ほ-19-1/角川書店/2012.12.25
http://www.kadokawa.co.jp/bunko/bk_detail.php?pcd=321209000031
 堀辰雄『菜穂子・楡の家』新潮文庫/ほ-1-5/新潮社/1948.12.17
http://www.shinchosha.co.jp/book/100405/
 堀辰雄『風立ちぬ・美しい村』新潮文庫/ほ-1-2/新潮社/1951.1.29
http://www.shinchosha.co.jp/book/100402/
 堀辰雄『大和路・信濃路』新潮文庫/ほ-1-6/新潮社/1955.11.1
http://www.shinchosha.co.jp/book/100406/
 吉野源三郎『君たちはどう生きるか』岩波文庫/青158-1/岩波書店/1982.11.16
http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/33/2/3315810.html
 ロバート・ウェストール『ブラッカムの爆撃機』岩波書店/2006.10.5
http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/02/1/0246320.html
 ロバート・ウェストール『水深五尋』岩波書店/2009.3.25
http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/00/8/0010770.html
※ ほかにも、ロッキング・オンという会社が出版している雑誌である月刊CUTの2013年9月号(2013.8.19刊行予定)に、宮崎駿さんへのインタビューを活字にした記事が載るようです。

註2 「破裂」ということばは、映画『風立ちぬ』のなかにも、出てきます。軽井沢で登場したドイツ人・カストルプが、「ニホン ハレツスル。ドイツモ ハレツスル」と言っていました。

註3 破局は世界規模になっています。このことばから、私は、コミック版『風の谷のナウシカ』に出てきた「上人さま」と呼ばれる人物のことばを、連想しました。彼には、「破局の兆があらゆるところに現われています」という台詞がありました(第4巻/徳間書店/2007.1.30/91頁)。

註4 切迫した時代に生きる人たちには、時間がない。このことについては、堀田善衛さんの作品である『若き日の詩人たちの肖像』に、つぎのような記述があります。

□ 堀田善衛『若き日の詩人たちの肖像』下巻/集英社文庫/ほ-1-4/集英社/1977.10.30/137頁
http://books.shueisha.co.jp/CGI/search/syousai_put.cgi?isbn_cd=4-08-750062-4&mode=1

 胸紐君は、
「ただいま」
 と言って家へ上り、まだ若い、少女のような妻に紹介をした。背が高くて男の子のようなふうに断髪していた。紹介されて若者がおどろいたことには、その少女は、かつて宝塚少女歌劇というものに誘われて見に行ったとき、胸紐君が、
「ナントカさぁーん!」
 と呶鳴った、一座のスター役であったそのナントカさんであった。
(中略。以下139頁)
 胸紐君は、どこへも勤めず、暮らしは学生時代同様に仕送りでたて、召集が来るまでは心静かに本を読む、というのであった。しかもなお食事は1日に1回にし、結婚までをしていた。
 それは――わからぬことではなかった。ひとことでいって、それは生の急ぎ、とでもいうものであったろう。断髪のナントカさんにしても、これが平時であったなら、結婚の相手は、大金持ちの胸紐問屋の坊ちゃんであったから、まずは願ってもないよい相手というべきものであったろう。
 けれども――そこに、けれども、けれども、と何度くりかえしてみても、そのあとにあからさまなことばをつらねることを憚られるようなものが、やはりつかえていることにかわりはなかった。しかもそのことは、断髪のためにいくらかは勇ましげに見える少女の、伏目がちなその眼に、はっきりとあらわれているのであった。どうしても正視したくはないようなものが、少女の肩に、胸に哀れに靄のようにしてたちこめているのである。その肩を、正視しないようにしてちらちらと見ていて、若者は何かの光りにうたれるようにして、戦争の本当の犠牲者というものは、殺されて行く青年たちなのではなくて、実はこういう哀れげな少女たちなのではないか、青年たちの生の急ぎの〝犠牲者〟にこういう少女たちはなって行くのではなかろうか、とどうしても思わざるをえなくなって行った。軍隊にも戦場にも、それなりの生活行動というものがある筈である。けれども、これらの少女たちには、待つことしかありはしない。しかも、断髪のナントカさんは、もう胸紐君の子を孕んでいる、というのである。それはもう、なにか残酷なような気のすることであった。

註5 戦時中、堀辰雄さんが、若い文学仲間に、「戦後の希望は社会主義的なヨーロッパ連合を作ることにしかないんじゃないか」と話していた。このことは、堀田善衛さんが、司馬遼太郎さんと宮崎駿さんとの鼎談のなかで、話していたことです。堀田善衛さんの話がきっかけになって、宮崎駿さんは、堀辰雄さんに興味を抱くようになったのかもしれません。

□ 堀田善衛・司馬遼太郎・宮崎駿『時代の風音』朝日文庫/じ-1-1/朝日新聞社/1997.3.1/43頁
http://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=3875

司馬 文学史的にいえば、昭和初年に中野重治さんらが『驢馬』という同人雑誌をやってて、佐多稲子さんもいて……。
堀田 堀辰雄がいた。
司馬 石川某もいた。西沢隆二という詩人もいて、ぬやま・ひろしというのが筆名です。この人はのちに共産党の偉い人になる。全員が芥川龍之介のファンだった。芥川さんが死んで、それからある時期ににわかに全員が左翼になったらしいですよ。いつ、どんな契機でもって左翼になったのかわかんないんですけども、『驢馬』の同人はほぼ全員、左翼になった。
堀田 その同人の堀辰雄はね……。
司馬 堀辰雄さんは免れてるんですね。
堀田 そうなんです。だけど堀さんも、私は家が近くてよく散歩のときなんかに会って話をしましたけど、戦時中はやはり「堀田君、ヨーロッパ全部が社会主義になる日まで、俺、生きていたい」と言ってました。亡くなったのは戦後ですけど。

※ 同じ趣旨の話は、つぎの2冊のなかにも出てきます。
前掲『若き日の詩人たちの肖像』下巻/244頁
前掲『めぐりあいし人びと』189頁

註6 じぶんの生まれた時代を真剣に生き、ちゃんと考えること。そのことについて、宮崎駿さんは、こういう文章も書いています。

□ 宮崎駿「文庫版あとがき」養老孟司・宮崎駿『虫眼とアニ眼』新潮文庫/み-39-1/新潮社/2008.2.1/190頁
http://www.shinchosha.co.jp/book/134051/

 養老さんの解剖もぼくのアニメーションという仕事も大きくいえば専門職で、日々、目の前の手業に集中しなければいけません。それは一方で、マックス・ウェーバーのいう、「精神なき専門人」に成り下がる危険性も十分孕んでいます。それが世界の中でどういう意味を持っているのかも考えずに、ただ見事な腑分け、見栄えのするアニメーションを目指す人間に堕ちてしまうかもしれません。しかし場合によっては、いっとき専門の世界に籠ることによってこの世界を冷静に見ることができるようにもなるのです。自分の覗き穴から世界を眺める、とでも言えばいいでしょうか。アニメーションといえども、いろいろな動きをひたすら描き続けていくうちに「ああ、これが世界の秘密なのかもしれない」と思う瞬間があります。そして、そういう経験の積み重ねから自分なりのものの見方が形づくられていくのでしょう。

註7 新古今集をつくった藤原定家については、堀田善衛さんが、彼を主人公にした評伝を書いています。でも、私は全2巻あるうちの1巻目を読んだだけなので、その評伝から文章を本稿に引用することは、差し控えます。ただ、本文において述べていることに関係のある文章を、一か所だけ、ここに引用しておきます。

□ 堀田善衛『定家明月記私抄』ちくま学芸文庫/ホ-3-2/筑摩書房/1996.6.10/13頁
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480082855/

 国書刊行会本(明治44年刊)の『明月記』をはじめて手にしたのは、まだ戦時中のことであった。言うまでもなく、いつあの召集令状なるものが来て戦場へ引っ張り出されるかわからぬ不安の日々に、歌人藤原定家の日記である『明月記』中に、

 世上乱逆追討耳ニ満ツト雖モ、之ヲ注セズ。紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ。

 という一文があることを知り、愕然としたことに端を発していた。その当時すでにこの三巻本を入手することはまことにむずかしかった。私は知り合いの古本屋を、いつ召集されるかわからぬのに、この定家の日記を一目でも見ないで死んだのでは死んでも死にきれぬ、といっておどかし、やっとのことで手に入れたものであった。
 定家のこの一言は、当時の文学青年たちにとって胸に痛いほどのものであった。自分がはじめたわけでもない戦争によって、まだ文学の仕事をはじめてもいないのに戦場でとり殺されるかもしれぬ時に、戦争などおれの知ったことか、とは、もとより言いたくても言えぬことであり、それは胸の張裂けるような思いを経験させたものであった。
 ましてこの一言が、わずかに19歳の青年の言辞として記されていたことは、衝撃を倍加したものであった。しかもこの青年が、如何にその当時として天下第一の職業歌人俊成の家に生まれていて、自分もまたそれとして家業を継ぐべき位置にあったとしても、この年齢ですでに白氏文集中の詩の一節、「紅旗破賊吾ガ事ニ非ズ」を援用して、その時世時代の動きと、その間に在っての自己自身の在り様とを一挙に掴みとり、かつ昂然として言い抜いていることは、逆に当方をして絶望せしめるほどのものであった。そうしてその当時に私が読んでいた解説書などもがどういうものであったかはすでに記憶にないのであるが、「紅旗」とは朝廷において勢威を示すための、鳳凰や竜などの図柄のある赤い旗のことをいい、「征戎」とは、中国における西方の蛮族、すなわち西戎にかけて、関東における源氏追討を意としていること、つまりは自らが二流貴族として仕えている筈の朝廷自体も、またその朝廷が発起した軍事行動をも、両者ともに決然として否定し、それを、世の中に起っている乱逆追討の風聞は耳にうるさいほどであるが、いちいちこまかく書かない、と書き切っていることは、戦局の推移と、頻々として伝えられてくる小学校や中学校での同窓生の戦死の報が耳に満ちて、おのが生命の火をさえ目前に見るかと思っていた日々に、家業とはいえ彼の少年詩人の教養の深さとその応用能力などどともに、それは、もう一度繰り返すとして、絶望的なまでに当方にある覚悟を要求して来るほどのものであった。

※ 同じ趣旨の文章は、つぎの2冊のなかにも出てきます。
前掲『時代と人間』65頁
前掲『めぐりあいし人びと』176頁

 このように、藤原定家も、じぶんの生まれた時代を真剣に生き、ちゃんと考えていた人物だったのです。彼を主人公とした『定家明月記私抄』全2巻も、映画『風立ちぬ』に、なにか影響を与えているのではないか。そう私は想像しています。
 なお、2巻目は、こちらです。
 堀田善衛『定家明月記私抄 続篇』ちくま学芸文庫/ホ-3-3/筑摩書房/1996.6.10
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480082862/

註8 現実から切れること。そのことを考えるとき、私の脳裏には、二郎と菜穂子との夫婦生活が、世情とは切れた、ふたりだけの世界だったことも、思い浮かんできます。このことについて、宮崎駿さんが書いた、こういうことばがあります。

□ 前掲『本へのとびら』154頁

 思春期にときどき父と口論しました。戦争責任についてです。
 父親は戦争をしたのは軍部であり自分ではない、スターリン(当時のソ連の独裁者)も日本人民に罪はないと言ったといいます。日中戦争のとき兵隊にとられましたが、戦地に行かずに済みました。父に一度だけきいたそのときの思い出話は、あっけにとられるほど上手にできていて、本当とは思えないほどの要領の良さと、国のためなんかより女房のほうが大切だという考えにつらぬかれています。

 二郎にとっては、国のためなんかより、菜穂子のほうが大切だった。菜穂子にとっても、国のためなんかより、二郎のほうが大切だった。そのことを、ふたりの夫婦生活についての描き方は、物語っているのではないでしょうか。
 ここまで書いてきて、さらに私が連想した宮崎駿さんの文章を、つぎに引用しておきます。

□ 宮崎駿「憲法を変えるなどもってのほか」熱風/2013年7月号/スタジオジブリ出版部/11頁
http://www.ghibli.jp/shuppan/np/009348/

 憲法は目標であって、条文をよくしたら貧乏人がいなくなるとか、そんなことあり得ない。でも、戦後の日本は、その憲法に守られながら行ってきた経済建設のお陰で、他の国々の人々から収奪したお陰もあるかもしれないけども、飢え死にしている人を見かけることなどはほとんどない国になれました。もし、健康保険制度がなかったら、医者にかかれない人がものすごくいっぱい出てくると思うんです。アニメーションの関係者はほとんど歯医者さんにかかれないでしょう(笑)。本当にある時期までは、戦後立てた目標を実現しようと、公平な社会をつくろうと、右翼の政治家たちも随分やってきたと思いますよ。
 それが、経済的にもうこれ以上は無理となると、「この制度はいけないんじゃないか」とか、「生活保護制度がいけないんじゃないか」とかいろいろ言う。どんな制度でも悪用する人間は必ず現れますから、それを例にして潰すのは間違いです。ただ、どこの地方自治体も財政は硬直化してます。福祉関係だけでにっちもさっちもいかなくなっている。それは感じます。僕が住んでいる所沢の財政支出を見ていても、これはすごそうだなと思います。だから、どっかでずるずるずるっと貧乏になっていかざるを得ないんだと思います。それはもう、そういうことだからしょうがないですよ。
 なので、将来の希望とかではなく、今やってる仕事がおもしろいとか、友人とホッとするいい時間を持つだとか、好きな亭主の顔見たらうれしいとか、これから、人はそういうことで生きていかないといけない。将来の保証なんかない。こんなこと言っても何の励ましにもならないけれど(笑)。でも、本来人間はそうして生きて来たんです。

 二郎にとっては、今やっている仕事がおもしろい。そして、好きな女房である菜穂子の顔を見たら、うれしい。
 菜穂子も、好きな亭主である二郎の顔を見たら、うれしい。
 ふたりとも、将来の保証はおろか、わずかな時間しか将来がないなかで、そういうことで生きていたのではないでしょうか。

註9 この挿話は、前掲『若き日の詩人たちの肖像』下巻/311頁にも出てきます。

註10 この段落の文章を読んで、私は胸がいたみました。戦死していった青年たちが、異国の戦地で、堀辰雄さんの作品を、「生の悦び」を謳った作品を、読みたがっていたというのです。

註11 宮崎駿さんは「晩夏」という小説がものすごく好きだと話しています(前掲『風立ちぬ ビジュアルガイド』87頁)。

註12 この二郎の行動については、宮崎駿さんのお父さんからの影響も、あるようです。宮崎駿さんのお父さんは、関東大震災のとき、「妹の手をひいて逃げまわり」、宇都宮で爆撃にあったときには、「4歳の宮崎駿さんを背負って」、東武鉄道の土手に這いのぼり逃げたといいます(前掲『本へのとびら』153頁)。こうした宮崎駿さんのお父さんの姿に、菜穂子の手を引き、絹江を背負った二郎の姿が、私には重なって見えてきます。

註13 ポール・ヴァレリイは、「風立ちぬ、いざ生きめやも」の原詩を書いたひとですね。このひとも、じぶんの時代を真剣に生き、ちゃんと考えていたひとだったようです。

註14 抒情と自己感傷の陥し穴か罠。このことについては、作家・中村真一郎さんが、的確な指摘を書いているので、ここに引用します。なお、中村真一郎さんは、堀辰雄さんの「若い友人」であり、堀田善衛さんの友人でもありました。堀田善衛さんの作品である『若き日の詩人たちの肖像』には、中村真一郎さんをモデルとした「冨士君」という人物が、登場します。

□ 中村真一郎「堀辰雄 人と作品」前掲・堀辰雄『風立ちぬ・美しい村』209頁

 堀辰雄の文学は、この世ならぬ、ある香りのようなもの、実在しない、素敵な夢のようなもの、現実であるには純粋すぎるもの、というふうに受けとられ、それが夢見がちな若者の心を捉え、彼らが人生に直面しようとするのを、その眼を外らさせようとする、つまり快い逃避の文学として理解されがちだからである。そして、従ってそのような作品を書いた作者は、やはりこの雑駁な社会には生きていなかった、人間でない妖精のような存在だと、誤解される結果になっている。
 そして、この誤解は一部の堀辰雄嫌いの人々をも生んでいるし、それは堀辰雄の文学の真実の価値を見失った浅薄な受けとり方なのである。
 堀辰雄の、あの確かに現在の小説一般が失っている、一種の品位のようなもの、微妙な洗煉というふうのものは、無視できないその文学の美点であるとしても、にも拘らず氏の小説は、他の多くの作家の作品同様、この生の、私たち自身が生きている日常の現実からその素材を汲みとられたものである。そして、その現実の生の場における、氏自身の感覚、美意識、人生観が、結晶して作品となったものであり、どこか存在しない、人生以外の場から空想的に作り出された生命のない、造花的作品ではない。

 堀辰雄さんの作品は、夢見がちな若者の心を捉え、彼らが人生に直面しようとするのを、その眼を外らさせようとする、つまり快い逃避の文学として理解されがちである。
 この指摘は、宮崎駿さんの映画『風立ちぬ』にも当てはめることができるのではないでしょうか。そう私は感じています。
 正直に言って、私自身、映画『風立ちぬ』を観たあと、仕事において厄介な問題に直面したとき、「もう一度、映画『風立ちぬ』を観て、改めて励ましをもらいたい」と思うことがありました。しかし、そのような観方は、「快い逃避」のために映画『風立ちぬ』を利用する観方でしょう。そんな観方をしていては、本来、映画『風立ちぬ』に宮崎駿さんが込めた励ましに、反することになってしまいます。
 映画『風立ちぬ』は、何度も観ることなく、最初に観た印象を、そのまま胸の奥にしまっておくべき映画なのではないでしょうか。

註15 【画家を読む】ゴヤ~理性の眠りは妖怪を生む~
http://mizuumikujira.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-29aa.html

註16 力を尽くして生きることについて、私が映画『風立ちぬ』を観て感じたことを、書き留めておきます。
 力を尽くして生きたからこそ、二郎は、菜穂子と暮らし、あの時代を生き抜くことができたのではないか。そう私は感じているのです。
 映画『風立ちぬ』のなかに、恐慌のなか、仕事を求めて線路を歩きながら都会を目指す、失業者たちの描写がありました。彼らとは違い、二郎は、大軍需産業へ就職し、汽車に乗って勤め先に向かっていきます。二郎は、少年の頃から近眼になるほど力を尽くして勉強して、東京帝国大学に入り、「うわさの英才」として恐慌をはねのけて就職を決めたのです。
 さらに、こういう場面もありました。特高が二郎を狙っているなか、上司の服部と黒川は、二郎をかばい、彼を隠すようにして、自動車に同乗。そのなかで、服部は、二郎に、こう伝えます。
「会社は全力で君を守る。君が役に立つ人間である間はな」
 会社にとって役に立つ人間でなかったら、それだけの働きができていなかったら、会社は二郎を見放して、二郎は特高に捕まり、菜穂子から引き離されてしまっていたかもしれません。二郎が力を尽くして働いていたからこそ、彼は菜穂子と最後の時間を過ごすことができた。そうも言えるのではないかと、私は考えています。
 さらにいえば、黒川が、二郎と菜穂子に離れを貸してくれたのも、人情からだけではなく、二郎が会社にとって・黒川にとって役に立つ人間だったから、なのではないでしょうか(これは勘繰りかもしれませんね)。
 力を尽くして生きることは、荒廃した現実生活のなかで、じぶんたちの居場所を確保することにも、つながる。そのことを、映画『風立ちぬ』は、暗示しているのではないでしょうか。

 以上

2012年1月29日 (日)

【画家を読む】ゴヤ~理性の眠りは妖怪を生む~

□ ゴヤの言葉

 理性の眠りは妖怪を生む。
 理性に見捨てられた想像力は、不可能な妖怪を生む。それが合体すればこそ、芸術の母となり、その奇跡の源泉ともなるのである。(ゴヤ4/418頁)

□ 主要参考文献
1 堀田善衛『時代と人間』徳間書店/2004.2
http://www.tokuma.jp/book/bungei/1176093861875
2 堀田善衛『ゴヤ』第1巻/集英社文庫/ほ-1-22/集英社/2010.11
http://books.shueisha.co.jp/CGI/search/syousai_put.cgi?isbn_cd=978-4-08-746638-6&mode=1
3 堀田善衛『ゴヤ』第2巻/集英社文庫/ほ-1-23/集英社/2010.12
http://books.shueisha.co.jp/CGI/search/syousai_put.cgi?isbn_cd=978-4-08-746648-5
4 堀田善衛『ゴヤ』第3巻/集英社文庫/ほ-1-24/集英社/2010.12
http://books.shueisha.co.jp/CGI/search/syousai_put.cgi?isbn_cd=978-4-08-746648-5
5 堀田善衛『ゴヤ』第4巻/集英社文庫/ほ-1-25/集英社/2011.2
http://books.shueisha.co.jp/CGI/search/syousai_put.cgi?isbn_cd=978-4-08-746666-9
6 国立西洋美術館『プラド美術館所蔵ゴヤ――光と影』図録/2011.10
http://www.goya2011.com/

□ 目次
第1 はじめに
 1 問題意識
 2 人と作品
第2 ゴヤの人生(概要)
第3 ゴヤの人生(各論)
 1 画家としてのゴヤ
  (1)伝統と独創
  (2)デッサン
 2 生計
  (1)収入
  (2)支出
 3 世渡り
  (1)世間智
  (2)友人・知己
 4 人間としてのゴヤ
  (1)挫折
  (2)葛藤
  (3)大患
  (4)滅形
第4 本題――ゴヤの見たもの
 1 見ること
  (1)見るとは
  (2)ものの見方
   ア 批判からリアリズムへ
   イ リアリズムから実存へ
 2 ゴヤの見たもの
  (1)版画集「気まぐれ」58番「犬に食わせろ!」
  (2)版画集「戦争の惨禍」33番「これ以上何が出来るか」
  (3)黒い絵「わが子を喰うサトウルヌス」「決闘」
   ア 「わが子を喰うサトウルヌス」
   イ 「決闘」
  (4)小括
   ア 人間も動物である
   イ 紅の豚
 3 生きる力
  (1)動物としての生命力
  (2)突き抜けたニヒリズム
 4 理性へ
 5 総括
第5 個人的な体験
 1 克服
 2 他人・自分の汚さ・醜さ
  (1)A
  (2)B
  (3)C
  (4)D
 3 総括
  (1)ゴヤの絵
   ア 理不尽な言いがかり
   イ 人が人を食う
   ウ 終わりのない争い
   エ 歴史は繰り返さず・人これを繰り返す
  (2)自尊心
  (3)今後の課題

第1 はじめに
 本稿は、【作家を読む】開高健さん・【映画を読む】コクリコ坂からに続く、自分のための覚書です。
1 問題意識
 さいしょに、これまで私の抱いていた問題意識を、あらためて、書き留めておきます。
 大学を卒業して、数年。その間、わたしは、社会人として働いてきました。そのなかで、汚い真似をする人間たちに、何人か、会ってきました。わたし自身も、汚い真似をしてきました。
 そういった経験を通して、20代の折り返し点を過ぎた現在、わたしが抱いた問題意識。それは、つぎのようなものでした。
「これから年齢を重ねていく先で、汚い人間に仲間入りをしないためには、どういうふうに生きてゆけばよいのだろう? ひるがえっていえば、まっとうに生きてゆくためには、どうしたらよいのだろう?」
 この問題意識にもとづいて、私は、【作家を読む】開高健さん・【映画を読む】コクリコ坂からを、書いてきました。これらの記事を通して考えてきたことに対する、いったんの結論が、本稿です。いったんの結論を出すにあたって、考えるヒントになったもの。それが、作家・堀田善衛さんの書いた『ゴヤ』全4巻(集英社文庫)でした。
2 人と作品
 堀田善衛さんは、映画監督・宮崎駿さんの尊敬する、作家さんです(註1)。
 堀田さんの主要な作品を貫いている主題、それは、「乱世を生き抜く人間」でした。
 堀田さん自身も、若いころ、故郷から上京した、その夜に、二・二六事件に遭遇して以後、戦争という乱世のなかで、青年期を過ごしたひとでした。このことにつき、堀田さんは、こう語っています(『めぐりあいし人びと』集英社文庫18頁)。
「この間、司馬遼太郎さんと対談したときに、彼が「おれは、まるで戦時中のおれへの手紙を書いているようなものだ」といってましたが、私もまったく同じで、後年の『方丈記私記』(1971年)とか、『定家明月記私抄』(1986年)などは、結局、戦時中に背負い込んだものを戦後になって作品化したものなんです。それから、『ゴヤ』(1973~1976年)にしても、戦時中にゴヤの『戦争の惨禍』という版画集を見たことから始まっている。
 ですから、戦時中に背負い込んだテーマを返すのに、ほとんど生涯を費やしたといえるんじゃないでしょうか」
 そして、堀田さんが取り上げたゴヤも、戦争という乱世のなかで、生き抜いたひとでした(註2)。乱世のなかで青年期を過ごして、そのとき背負い込んだテーマを、生涯かけて返した、堀田さん。その堀田さんが、同じく乱世を生き抜いた、ゴヤのことを書いている。そのなかから、私の上記問題意識について、考えるヒントを得ることができるのではないか。そう考えて、私は、『ゴヤ』を読み通しました。『ゴヤ』を読み、私が考えたこと。そのことを本稿において書いてゆきます。

第2 ゴヤの人生(概要)
 まず、ゴヤの人生を、大まかに紹介します。
 ゴヤの生まれた当時、スペインは、全土にわたって食べ物が足りなくて、ひとびとが非常に飢えていました。そのなかでも、とくに極貧の村である、サラゴーサに、彼は生まれました。
 当時、食べものの足りていた階層は、教会・貴族・宮廷でした。そこで、彼は、宮廷画家を志します。彼は、地元の画家に弟子入りして、まずはデッサンを徹底して学んだとのことです。13歳から17歳。
 彼が画家として受けた初めての仕事は、地元サラゴーサにあった教会のフレスコ画。この注文を受けるにあたって、彼は、見積りで競争していた相手の金額を密かに調べ、それよりも安い金額を提示して、仕事にありつきます。したたかだったのです。26歳。
 その後、彼は、アカデミー会員かつ宮廷画家であるフランシスコ・バイユーの妹と結婚。アカデミー、そして宮廷へのわたりをつけます(註3)。27歳。
 29歳、彼はマドリードに移住して、王立サンタ・バルバラ・タピスリー工場で、働きはじめます。タピスリーとは、壁掛けじゅうたんのこと。この工場は、貴族・宮廷の邸宅内部を飾るタピスリーを織っていました。そのタピスリーの原画を、ゴヤは担当したのです。この時期は、画風についても、まだ、時代の好尚に合わせていました。時代の好尚に合わせた、手から口への仕事、そういう時期でした。
 34歳、ゴヤはアカデミー会員になります。アカデミー会員になることは、宮廷画家になるための必要条件、その第一歩でした。
 アカデミーに入ったゴヤは、知識人に知己を得るようになります。たとえば、リォレンテ司祭。彼によって、ゴヤは、もともと持っていた教会批判にかんする認識を、さらに深めたようです。
 同じ年、戦争による財政難によって、宮廷がタピスリー工場を閉鎖します。工場の閉鎖は、ゴヤにとって、定収がなくなるということでした。彼は、この頃から、肖像画をたくさん描いて、稼ぎはじめます。なお、工場の閉鎖は、彼が40歳になるまで続きました。
 彼が肖像画を描いた相手のなかには、大物がいました。総理大臣フロリダブランカ伯爵です(註4)。
 フロリダブランカ伯爵は、さらに大物へ、ゴヤを紹介してくれました。ドン・ルイース親王。この親王は、当時の王である、カルロス3世の弟でした。ドン・ルイース親王の邸宅に、ゴヤは住み込み、その家族の肖像を多く描きました。このドン・ルイース親王の肖像を描いたことが、彼の評判を高めました。37歳。
 その後、彼は、オスーナ公爵夫人から、絵画の注文を受けるようになりました。オスーナ公爵夫人は、当時、スペインの社交界において、頂点に立っていた人物のうち、ひとり。41歳。
 そして、彼は43歳にして、念願の宮廷画家になります。彼を宮廷画家に任命した王は、即位したばかりだったカルロス4世。
 しかし、喜びは、つかの間でした。同じ年に、隣国フランスにて、革命が起こったのです。激動の時代が、はじまります。
 激動は、時代だけではなく、ゴヤ個人にも起こりました。47歳、彼は重病にかかり、聴覚を失います。この病気の原因は、彼がかかった梅毒を治療するために、水銀を使用したことだったようです。女遊びが、彼の仇となったのでした。
 48歳、回復したゴヤは、人生最後にして最大の恋愛を経験します。その相手は、アルバ公爵夫人です。アルバ公爵夫人は、オスーナ公爵夫人とならび、スペインの社交界において頂点に立つ女性のうち、ひとり。アルバ公爵夫人の別荘にて、ゴヤは、彼女と同棲。彼女の肖像を、豪華に・入念に描きます。51歳。この生活のなかで、彼は、会話のためにデッサンを用いるすべも、身につけたようです。この幸せな生活は、長くは続きませんでした。アルバ公爵夫人は、移り気な女性だったのです。彼女は、ゴヤを捨ててしまいます。この失恋は、ゴヤにとって、その後、人生において、ずっと尾を引くものとなりました。
 全聾・失恋。これらの事件を境に、ゴヤの描くものは、大きく変わります。タピスリー用カルトン時代に描いていた、「牧歌的に理想化した民衆生活」から一転、「人間の現実」を描くようになります。
 まず、その第一弾が、版画集「気まぐれ」でした。この版画集は、民衆・貴族の無知蒙昧、そして教会の偽善欺瞞を、諷刺するものでした。この版画集のために、彼が描いたもののなかには、アルバ公爵夫人の裏切りを非難するものも、入っていました。53歳。
 「気まぐれ」に入っていた、教会批判は、異端審問所からの追及を呼びました。追及は、総理大臣ウルキーホ(ゴヤの友人)が、彼を主席宮廷画家に任命しても、やみませんでした。その追及を、彼は、「気まぐれ」を、王に献上することで、切り抜けました。しかも、その報酬として、彼は、宮廷から息子への年金も、獲得しました(この事件について決着がついたのは、57歳のときでした)。
 この間、スペイン国内、とくに宮廷は、混乱のなかにありました。カルロス4世は、愚鈍な王様でした。その王妃マリア・ルイーサは、浮気ばかりしていました。その浮気相手である25歳の青年、マヌエル・ゴドイを、カルロス4世は、総理大臣に任命しました。カルロス4世は、ゴドイを信頼していて、彼なしでは、なにもできませんでした。このような異様な三位一体を頂点とした宮廷は、権謀術数の巣になりました。ゴヤの友人が、何人も失脚、追放の憂き目にあいました。アルバ公爵夫人も、急死。その死について、巷では、毒殺説が流れました。彼女の死後、その財産は、上記マリア・ルイーサ、そしてゴドイが略奪しました。
 そんななか、ゴヤは、カルロス4世の家族図を描きます。54歳。そして、これ以降、彼は、宮廷の仕事を、全く、しなくなります。敬して遠ざかっていたのです。しかし、彼は、宮廷画家としての俸給・待遇は、受けつづけました。
 時代は、ますます混迷を深めてゆきます。フランスではナポレオンが頭角をあらわし、その脅威にスペインの宮廷も揺らぎます。カルロス4世の皇太子、フェルナンド7世は、フランスに内通しようとして発覚、幽閉。宮廷での騒ぎだけでなく、戦争も、相次ぎます。スペイン対フランス。スペイン対ポルトガル。スペイン・フランス対イギリス。
 この不安な時期に、彼は、肖像画を描きに描きました。稼ぎまくったのです。54歳から61歳。ゴドイからの注文を受けて「着衣のマハ」「裸のマハ」も描きました。
 そして遂に、スペインが戦地となります。スペインにフランス軍が、策略により進駐。その真の目的は、スペインの占領でした。動揺する宮廷。王・王妃がアメリカへ逃げようとした、その日に、皇太子フェルナンドが謀反。王は皇太子に、嫌々ながらも譲位します。謀反に加担した民衆は、総理大臣ゴドイを半殺しの目に遭わせました。もつれにもつれた宮廷の面々は、ナポレオンに呼びつけられて、みな、フランスへ。スペインに、政府の空白が生じます。そんななか、スペインに駐留するフランス軍に対して、民衆が蜂起。凄惨なゲリラ戦争がはじまります。  戦火のなか、ゴヤは、故郷サラゴーサを訪れます。サラゴーサは、フランス軍による包囲戦を、なんとか乗り切った直後でした。62歳。このサラゴーサ行のなかで見聞したことを、彼は、のちに、版画として、何年もかけて、描きます(戦争の惨禍)。この版画集は、彼の存命中には、刊行することができませんでした。
 スペイン人民による反抗もむなしく、戦争はフランスの勝利に終わりました。ゴヤも、ナポレオンそしてホセ1世(ナポレオンの弟である新スペイン王)に忠誠を誓い、フランスへスペインの美術品を運ぶ、その委員会の委員になります。
 しかし、戦争の惨禍は、なお続きました。スペイン全土にわたって、飢えが襲ってきたのです。5ヶ月の間に、2万人が飢えと病いで死亡しました。この飢えを、ゴヤは、切り抜けました。しかし、死を身近に感じたのでしょう、彼は、妻とともに遺言を認めました。65歳。
 飢えをしのいでも、スペインに安定は訪れません。こんどはイギリスがフランスをスペインから追い出しました。イギリス軍の指揮官、ウェリントンの肖像を、ゴヤは描きます。66歳。
 この年、妻のホセーファが死にます。その遺産を、ゴヤは、息子と分割しました。このときの分割方法は、つぎのとおり。金銭・金銀・宝石は、ゴヤ。家・絵は、息子。ゴヤは、持ち運びできる財産を、その手に確保したのでした。
 妻が死んでからまもなく、ゴヤは、40歳以上も年下の女性と同棲をはじめます。その名は、レオカーディア。彼女は、この時期からゴヤが死ぬまで、彼の伴侶でした。
 この時期、ゴヤは、レオカーディアとともに、フランスへ亡命することを試みたようです。しかし、宮廷画家である彼は、自由に国外へ抜けることが、できません。彼は、国境で止められ、「国境を越えるなら財産を没収する」旨、通告を受けます。ここで、彼は、いったん、引き下がりました。
 話を、政治の世界に戻しましょう。イギリスは、スペインをフランスから解放したうえで、フランスに逃げていたフェルナンドを、スペインの王位に据えました。
 フェルナンドを、スペインの人民たちは、熱烈に歓迎しました。彼らにとっては、フェルナンドこそ、反フランス戦の象徴だったのです。フェルナンドが、過去、フランスにスペインを売り渡そうとしたことを、ひとびとは、知りませんでした。彼らは、勘違いに勘違いを重ねて、戦っていたのです。
 ゴヤも、ひとびとが待ち望んでいた王を迎えるために、凱旋アーチに掲げるための絵画を描きます。有名な「5月2日」そして「5月3日」です。68歳。
 しかし、王位についたフェルナンドは、フランスがスペインで制定した憲法を、無効であると宣言。近代憲法とは逆行した絶対王政を始めます。査問委員会・異端審問所も猛威を振るい、聖職者でない人間は、誰もが投獄になる可能性がありました。
 ゴヤも、その標的になりました。過去、フランスがスペインを占領していた時期、ホセ1世に対して、忠誠を誓った。そのことを、査問委員会が咎めたのです。
 これに対し、ゴヤは、フェルナンドや、時の総理大臣の肖像画を、たくさん描きはじめました。彼ら、そして査問委員会から、よい印象で見てもらうために。
 なお、この年、ゴヤとレオカーディアとの間に、女の子が生まれました。
 ゴヤの窮地は、さらに続きます。今度は、異端審問所が「着衣のマハ」「裸のマハ」の猥褻さを理由として、ゴヤに対する追及をはじめました。この追及は、ゴヤを召喚するところまで進み、その後、尻切れとんぼで終わりました。追及が中断した理由は、ゴヤの友人である政治家たちが介入したからであるようです。69歳。
 果てしなく続く、不安な時期。この時期に、彼は、働きづめに働きます。不安と危惧の日夜をまぎらすには、働くことより他に法はないのです。版画集「闘牛技」。肖像画16枚。デッサン数十枚。銅版画「戦争の惨禍」「妄」も、このころに描いたものです。そして「王立フィリピン会社総会」。宗教画、事件画。69歳から71歳。
 そして彼は、これまでに稼いできた金額の半分をはたいて、家を一軒、マドリード郊外に買います。この家には、「聾者の家」という別名が付いていました。73歳。この前後、彼を再び大患が襲います。彼は、苦しむ自分の姿を鏡に映して、そのありようを、回復したのち、描きました。74歳。
 彼が、聾者の家にこもる前後、またスペインで動乱が起こります。フェルナンドによる圧制に対し、リエーゴ将軍という人物が、反乱を起こしたのです。反乱は、全土に広がり、フェルナンドを倒し、彼に憲法への忠誠を誓わせました。ゴヤも、喜び勇んで、アカデミイの会合に出席、憲法に忠誠を誓いました。この出席が、彼にとって最後の出席になりました。
 しかし、喜びの期間は、短いものでした。新しい政府には、指導力がなかったのです。国内は、極右と極左に分かれ、内乱がはじまりました。スペインのひとびとには、落ち着くひまもありません。
 ゴヤは、この混乱のなか、聾者の家に、3年間、こもりきりになります。そして、彼は、家の中に、3年かけて「黒い絵」を描いたのでした。この「黒い絵」が、彼がこれまで描いてきたことども、それらの総決算でした。74歳から77歳。
 3年間つづいた、スペインの内乱。その内乱に終止符をうったものは、神聖同盟によるスペインへの軍事介入でした。その目的は、フェルナンドの復位。ふたたび絶対王政が、はじまります。
 フェルナンドの復位を知り、ゴヤは、その身を隠しました。彼をかくまった人物は、ホセ・ドゥアゾ司祭。この司祭は、当時、政府の中枢にいた人物でした。ドゥアゾ司祭は、フェルナンド派を装いつつ、そのウラで、反体制派を保護していたのでした。78歳。
 潜伏中、ゴヤは、フランスへ亡命するために、策略を練ります。そして、粛正・査問が、ひと段落して、恩赦が全土に出た、その翌日に、彼は、王へフランスでの療養休暇を上申しました。休暇の許可を受け、ゴヤは、宮廷画家としての地位・待遇を確保したまま、フランスへ渡りました。
 ゴヤは、ボルドーに着いたのち、パリへ。そこで、新しい技術、リトグラフを学びます。そのリトグラフを使って、彼は画集「ボルドーの闘牛」を出版しました。
 この時期、彼は「おれはまだ学ぶぞ」という題名のデッサンも描いています。そのとおり、彼の創作意欲は、老年期に至っても、若年期・壮年期そのままでした。彼は、フランスにて死を迎えるまで、120枚のデッサンを描いたのでした。
 80歳、彼は、スペインへ一時帰国して、宮廷画家を引退。しかし、その俸給を、彼は、以前のまま、もらい続けました。
 82歳、フランスにて永眠。堀田さんは、働きづめに働いて生き抜いた彼に、こういう詩を送っています。
<わが子よ、休むためには、
 眠らねばなりませぬ、
 何も考えず、
 感じず、
 夢も見ず・・・・・・>
<――では母上よ、休むためには、死なねばなりませぬ。>

第3 ゴヤの人生(各論)
 上記第2をふまえ、本項では、ゴヤの人生につき、私が注目した点を、列挙します。
1 画家としてのゴヤ
(1)伝統と独創
 ゴヤは、はじめから独創的な画家だったわけではありませんでした。若き日、タピスリー用カルトンに従事していた頃、彼は、時代の画風や、伝統への順応と同化に、細心の注意を払って努力していたのでした。時代の画風、それは、図像学など、様々な規範にもとづいた描法でした。伝統とは、宗教画について、先人たちが積み重ねてきた描法のことでした。
 たとえば、タピスリー用カルトン「待ち合わせ」では、ゴヤは、図像学において、瞑想にふけるひとがとるべきポーズを、忠実に取り入れていました。このポーズは、最晩年の作品である黒い絵シリーズの「レオカーディア」にも、あらわれています。なお、黒い絵シリーズにおいては、ゴヤは、図像学のほかに、神話・占星術も、取り入れています。
 すなわち、ゴヤは、時代の画風、そして伝統に合わせ、絵を描いていくうちに、その画風、そして伝統を基礎としながら、やがて独自の表現を生み出していったのでした。
 その例は、ほかにもあります。近代絵画の出発点となった「5月3日」。その絵のなかで、ひざまずいて両手を掲げる男性、その掌に、ゴヤは、釘の跡を描きます。釘の跡は、十字架にかけられたキリストを暗示しています。殉教者を描く受難画の古い伝統が、「5月3日」において、ゴヤのなかで見事に活きているのでした。
 なお、ゴヤは、銅版画やリトグラフなど、新しい技術も貪欲に取り入れるひとでした。そして、なおかつ、彼は、古い技術も捨てないひとだったのです。
 まずは時代の画風に合わせ、伝統を身に付け、なおかつ、新しい技術も学び、そのうち、独自のものを生み出してゆく。このことは、画家にかぎらず、職業人生一般において参考になる。私は、そう感じています。
(2)デッサン
 ゴヤの職業人生においては、デッサンも、重要な役割を果たしました。
 少年時代、彼が徹底して学習した、デッサン。そのデッサンを、彼は、50代にさしかかるころ・聴覚を失ってから、ふたたび描きはじめます。デッサンを、彼は、当初、他人との会話のために利用していたようです。しかし、時がたつにつれ、デッサンは、彼にとって、日記、そして作品のための準備といった意味を持つようになりました。
 たとえば、彼が50代なかばに描いた、人の子を食らう魔女。この図柄は、70代、黒い絵シリーズの「我が子を喰らうサトウルヌス」に、ふたたび現れます。
 ほかにも、ローマ教皇を批判する「呪術師ここにあり」、そして、そのデッサンを受けた「虚無だ」。これら50代なかばでのデッサンと、同じ意味を持つものが、同時期の版画集「戦争の惨禍」に、現れます(「綱が切れるぞ」「虚無だ」)。
 このように、デッサンが、のちの作品に活きてくること、このことを、堀田さんは、こう表現しています。
「描くことは、残ることなのである」
 この言葉に触れたとき、私は、かつて自分が同じような言葉に出会っていたことを、思い出しました。その言葉は、学者・清水幾太郎さんの『論文の書き方』に書いてありました。その言葉を、ここに引用しておきます(『論文の書き方』岩波新書22頁)。
「少し乱暴な言い方をすれば、あの短文というのは、特に、長い文章の前提としての短文というのは、絵画における小さいデッサンに相当するように思う。沢山のデッサンを研究してからでなくては、大きな油絵に取りかかれないように、短文の研究を十分に行ってからでなくては、長い文章は書けないように思う。短文を書くという練習を抜きにして、最初から大論文を書こうとする人をよく見かけるが、それはデッサンをやらないで、大きな油絵を描こうとするのと同じである」
 平素から、小さいデッサンを書きためておくこと。短文を書きためておくこと。そのことが、大きな作品・文章、すなわち、思索の集成につながる。その意を、私も、ゴヤのデッサンを見て、いよいよ深くしました(註5)。
2 生計
(1)収入
 上記第2においても述べたとおり、ゴヤは働きづめに働いて稼いだ画家でした。
 彼は、宮廷画家としての仕事は、あまりやらず、もっぱら注文画、とくに肖像画で稼いでいました。
 若い頃は、タピスリー用カルトン工場が閉鎖して、定収がなくなったこともありました。壮年以降、スペインが混乱・戦乱に陥った時期には、稼ぐことのできるときに、ここぞとばかりに稼いでいました。先行きが不安なときに、ふところがさみしいようでは、話にならないのです。
 宮廷画家としての俸給だけでは、ゴヤが当時の社会を生き抜いていくためには、とても足りなかったようです。俸給自体が止まってしまった時期も、ありました。
 そんな働きつづけた彼の姿をあらわすデッサンとして、先にも触れた「おれはまだ学ぶぞ」があります。彼は、老いてフランスに亡命してからも、リトグラフという新技術を学び、画集「ボルドーの闘牛」を売り出して、収入を得ようとします(売れ行きはイマイチだったようです)。
 老いても働きつづける、ゴヤ。彼の姿から、私は、死ぬまで働く姿勢を学びました。私は、これまで、老後、年金が出るかどうか、不安を感じていました。その不安から、私は、60歳でリタイアしたあと、生活に必要な金額を計算。その金額を、60歳までの月数で割って、いまから毎月貯金するべき金額を割り出して、その金額を、そのとおり貯めていました。しかし、『ゴヤ』を読んで、私は「60歳でリタイアする」という考えを捨てました。死ぬまで働くことを覚悟したうえで、私は、これまでどおり、できるかぎり、貯蓄に励んでゆきます。
(2)支出
 ゴヤは、消費するひとでもありました。
 若い頃、彼は、派手な服装に身を包み、二頭馬車(今で言うスポーツカー)を買い、上流社会における生活を、謳歌していました。
 そして、老年に至って、彼が妻の死後、息子とゴヤ家の財産を分割したとき、作成した目録が、残っています。その目録に記載のある衣類・家具・書籍からみて、ゴヤは充分に裕福なブルジョアの生活を送っていました。そして、金、銀、ダイアモンド。ゴヤは貴金属、とりわけダイヤモンドが大好きでした。貴金属・宝石類には、財産保全の意味もありました。加えて、株券。彼はスペイン中央銀行の株主でした。そして、持家3件。そうとう稼いでいたのですね。
 彼は、これら財産のうち、現金・貴金属・宝石を自分のものとし、ほかは息子に呉れてしまいました。手軽なものばかりを手もとに残して、戦時下、身動きがとりやすいようにしたのです。
 そして、彼とって生涯で最後となった大きな買い物は、マドリード郊外に建つ家でした。彼は、手もとに残しておいた金額、そして、その後に稼いだ金額、それらを合計した半分をはたいて、家を買ったのでした。その家のなかに、彼は、黒い絵シリーズ――彼の画業についての総決算となるものを描いたのでした。自分の家の内部は、ひとが見る心配がありません。つまり、彼は、表現の自由を――彼にとって本当に大事なものを、それまで稼いで確保してきた全財産のうち半分を費やして、手に入れたのでした。
 こうした彼のお金の使い方は、私にとっても、参考になります。私にとって、本当に大事なもの。それが何なのかは、まだ、わかりません。私にとって本当に大事なものが何なのかわかるまで・そういった買い物をする時期が今後の人生のなかでめぐってくるまで(めぐってこないかもしれません)、私は倹約を続けます。
 なお、ゴヤは、自分の遺産について、息子が相続できるように、その管理人を選んでいました。そして、それでもとやかく言ってくる息子を、彼は、死の直前まで、なだめています。息子としては、ゴヤが老いてから女性と同棲して、子どもまで、もうけていたのですから、自分に取り分が残るかどうか、不安になっていたのでしょう。そういった、父親としての苦労も、ゴヤには、あったようです。
3 世渡り
(1)世間智
 ゴヤの人生を眺めていて、私が、感じたこと。それは、彼の世渡りのたくましさでした。その挿話を、以下、時系列で挙げてゆきます。
・ サラゴーサの教会での仕事を受注するにあたっては、見積りで競争していた相手の提示金額を密かに調べ、それよりも安い金額を提示。受注にありつきます。
・ 彼の結婚相手は、アカデミイ会員であり宮廷画家であるバイユーの妹。結婚によって、彼は、アカデミイそして宮廷へのわたりをつけたのでした。
・ そして彼は、アカデミイへ入るために、自身の家系を捏造。自分は貴族の末裔だとして、名前に「デ」を、はさむようになります。
・ 制作したタピスリー用カルトンのうち、当初「酔っ払った石工たち」という題名だったものを、彼は「傷ついた石工」に変更しました。この変更は、王が石工職人たちを保護するべく布令を出した、そのことを礼賛するためでした。
・ 肖像画を描く際、彼は指を描くことが苦手だったため、指まで描くときには、そのぶん高い報酬を取っていました。
・ アルバ公爵家から、肖像を描く注文がきたときには、彼は、すぐには公爵夫人にとりかからず、公爵のほうから、描きはじめました。すぐ公爵夫人にとりかかると、彼女のライバルであり・ゴヤの重要な顧客でもある、オスーナ公爵夫人との関係において、角が立つためでした。
・ サン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ教会において、フレスコ画を描いたときには、彼は、やっつけ仕事にもかかわらず、おそろしく水増しした請求書を出しました。
・ 版画集「気まぐれ」を出版するとき、彼は、あらかじめ異端審問所に対する言い逃れを用意しておくため、様々な仕掛けを、そのなかに散りばめました。①意味が分からなくなるように、版画の順序を、かきまぜる。②原典のある画題を使って、貴族たちを諷刺、言いがかりがついても、「原典をそのまま描いたのだ」と弁解できるようにしておく。
・ いざ「気まぐれ」が異端審問の対象になったら、友人でもある総理大臣が、ゴヤを主席宮廷画家に任命。ゴヤの地位を上げることによって、異端審問所が、手を出しにくくなるようにしました。
・ それでも追及がやまないので、ゴヤは、「気まぐれ」を王に献上。追及をかわし、なおかつ宮廷から息子への年金も獲得します。この間の経緯について、堀田さんは、こう評しています(ゴヤ2/437頁)。
「このどんでんがえし、大バクチとでも言うべきか――これだけは並の知識階級に出来ることではない。アラゴンの曠野に生れて、寒風熱風に吹きさらされた、したたかなプロレタリアートの子にしてはじめて思いつく方法であろう。その勇気と裏腹になっている、徹底的な悪知恵にも敬意を評すべきものであろう」
・ カルロス4世の家族図を描いて以降、彼は宮廷画家として絵を描くことがなくなります。しかし、彼は、宮廷画家としての俸給は、もらい続けました(本当に器用なことをするものですね)。働かない名目としては、たとえば、仮病を使っていたようです。
・ フェルナンド7世による圧制時代、自分に査問が及んできたとき、ゴヤは、フェルナンド7世の肖像画を6枚も描きます。加えて、総理大臣カルロス伯爵の肖像画も描きます。彼は、肖像画を描いて王・総理大臣を称えることによって、査問を免れようとしたのでした。
・ 戦乱のなか、ゴヤは、いちど、フランスへの亡命を試みます。しかし、宮廷画家という身分を持ったまま、国外へ出るためには、宮廷から許可を得る必要がありました。許可を得ていなかったゴヤは、国境にて「このまま国外へ出たら財産を没収する」旨、通告を受け、いったん引き下がります。
 数年後、ふたたびゴヤは、フランスへの亡命を試みます。こんどは、宮廷へ、フランスでの湯治を上申。上申時期は、粛清・査問がひと段落して、恩赦令が出た直後。上申方法は、通常経由するべき機関をすっとばして、侍従長へ。文句を言い出しかねない機関を省略して、王に、ほぼ直接に届いた上申によって、彼は許可を獲得しました。しかも、宮廷画家としての地位も保持。俸給も、もらい続けます。
・ 最晩年、ゴヤは、宮廷画家としての引退を、王に願い出ます。しかし、引退してもなお、俸給は、そのまま、もらい続けました。
 ・・・こうしたゴヤの世渡りを眺めていると、私自身、世間智を身につけていく、その必要を感じます。私も、成人してから今まで、ゴヤの場合ほど切迫してはいませんでしたけれども、智恵を発揮して切り抜けることが必要な局面に、何度か、出くわしてきました。同じような局面・もっと切迫した局面に、今後、数十年にわたる人生のなかで、私は出くわしていくことでしょう。そのとき、その局面を切り抜ける世間智を、私は、身につけておかねばなりません。
(2)友人・知己
 ゴヤには、多くの友人・知己がいました。彼らは、ゴヤの人生において、かけがえのない役割を果たしました。
・ アカデミイ会員であり宮廷画家でもある義兄バイユーは、彼に、タピスリー工場での仕事を紹介(バイユーは、その工場における監督でした)。加えて、彼がアカデミイへ入るにあたっても、その申し込みのために描く絵について、下絵を自ら描くなど、力添えしました。
・ ゴヤにとって最初の仕事、その場所となった、サラゴーサの教会。その教会を建築した建築家ロドリゲスは、ゴヤを、総理大臣フロリダブランカ伯爵に紹介しました。フロリダブランカは、彼を、ドン・ルイース親王に紹介しました。ドン・ルイース親王の家族を描くことによって、ゴヤは、画家としての評判を高めました。評判の高まった彼に、当時、社交界の頂点にいた、オスーナ公爵夫人やアルバ公爵夫人から、注文がくるようになりました。人が人を呼んでいますね。
・ アカデミイに入って以降、ゴヤは、知識人たちのなかに知己を得ます。彼らとの交流を通して、ゴヤは、見識を深めていったようです。
 たとえば、彼は、リォレンテ司祭から、教会にはびこる悪徳について学び、その認識を深めました。他にも、彼の知り合った知識人としては、のちに総理大臣にもなったホベリァーノスなどがいます。
 また、当時、知識人のあいだにひそかに出回っていた文書として、「パンと闘牛」というものがあります。この文書は、スペインにおける民衆・貴族・宮廷の愚劣蒙昧、そして教会の偽善欺瞞を批判するものでした。この「パンと闘牛」から、ゴヤの版画集「気まぐれ」は、影響を受けているようです。「気まぐれ」には、「パンと闘牛」に書いてあることと同じ趣旨を含んだ版画が、入っています。ゴヤは、友人である知識人たちを通じて、この文書を読んでいたのではないでしょうか。
・ ゴヤが窮地に陥ったときにも、友人・知己たちが、彼に手をさしのべました。
 たとえば、版画集「気まぐれ」によって、ゴヤが異端審問所から追及を受けたとき、時の総理大臣だった友人、ウルキーホが、ゴヤを主席宮廷画家に任命。この任命によって、ウルキーホは、ゴヤに対する異端審問所からの追及を牽制しました。
 フェルナンド7世による圧制が猛威を振るっていた時期、異端審問所が「二枚のマハ」について、ゴヤを追及したこともありました。この追及が突然に中断した理由も、ゴヤの友人たちが介入したからだといいます。
 また、ゴヤがフランスへ亡命を果たしたときにも、友人たちによる協力があったようです。この亡命を実現するためには、反動の側にも、その反対派の側にも、平素から親しい、信用できる友人のいることが必要でした。反動の側としては、彼を匿ったドゥアソ司祭がいました。さらに、彼の上申書(「湯治」を目的としたもの)を、厄介な機関を省略して侍従長へ届けた友人もいました。なお、その上申書には、弁護士が、保証人として副書していました。反対派の側には、彼の亡命を理解して、そのための智恵を彼に授けた、友人がいました。
 このように、ゴヤの人生においては、多くの友人・知己がいました。そして、彼らは、大きな役割を果たしました。
 ゴヤは、若い頃から、画業を通じて、広く・深く交流を深め、友人・知己になる人々と出会い、その出会いを大切にして、そのなかからめぐってくるチャンスを、つかんでいたのでしょう。
 広く・深い交流。友人・知己との出会い。その大切さを、ゴヤの人生から、私も感じました(註6)。
4 人間としてのゴヤ
(1)挫折
 ゴヤは、その生涯において、何度も、挫折を経験しました。
・ 若年期、ゴヤは、アカデミイ奨学生選抜試験に挑戦しました。挑戦は、2度。そして2度とも落選しました。17歳・20歳のときでした。20歳で挑戦した際、選抜試験に合格した人物は、審査委員だったフランシスコ・バイユーの弟である、ラモン・バイユーでした。
・ 33歳、ゴヤは、自分が原画を描いたタピスリーを、王がほめたことに勢いづいて、宮廷画家になるべく上申。このとき、彼は、アカデミイ会員にすら、なっていませんでした。彼の上申を、王は、当然のごとく却下しました。
・ 34歳、ゴヤは、アカデミイ会員となったことに、気をよくしていました。彼は、そのとき高まっていた自尊心から、教会からきた仕事について、義兄バイユーから監督を受けることを、拒否。その拒否が発端となった、ゴヤと義兄バイユーとの対立は、その教会における参事会も巻き込むかたちに拡大。果ては、異端審問所へ解決を委ねるかどうか、というところまで、話が進みました。異端審問所まで話が行ったら、ゴヤが処罰を受けることになる見込みでした。そこで、ゴヤは、義兄バイユーと参事会に対して、謝罪。しかし、この謝罪は、心からのものではありませんでした。この謝罪ののち、ゴヤは、友人へ宛てた手紙のなかで、こう書いています。「あの絵のことを思い出すと血が煮える」
・ 43歳、この年、ゴヤは、宮廷画家になりました。宮廷画家になった彼は、またしても有頂天になりました。彼は、自分の気に入った仕事だけを受けるようになりました。そして、彼は、タピスリー用カルトンを描かなくなりました。彼が仕事を拒否することに対して、タピスリー工場が怒りました。タピスリー工場は、ゴヤに給料を支払っている大蔵省へ抗議。大蔵省が調査に乗り出す騒ぎになりました。ここで、義兄バイユーが、調停に乗り出しました。義兄バイユーによって事なきを得たゴヤは、彼に、謝罪しました。
・ 50歳の前後、ゴヤは、アルバ公爵夫人と恋をし、失恋します。この失恋は、その後、彼の人生において、ずっと尾をひきました。
 アルバ公爵夫人の姿は、数年後にゴヤが刊行した版画集「気まぐれ」に出てきます。61番「飛んで行ってしまった」。19番「すべてのものは落ちる」。19番では、そっぽを向いているアルバ公爵夫人に向かって、短剣を帯びたゴヤが突進してゆく構図になっています。
 その後、70代で描いた版画集「妄」にも、アルバ公爵夫人に似た女性が出てきます。5番「飛ぶナンセンス」。創造の象徴である怪物ヒポグリフ、その背に男が女を抱きしめて乗っています。男は、彼女を抱いたまま怪物(創造の象徴)とともに飛び立とうとしています。これに対し、女は、男から逃れるべく、身をよじっています。
 そして、ゴヤは、彼にとって集大成となる作品群、「黒い絵」シリーズにおいて、彼からみた女性像について、その結論となる絵を描いています。その絵が「ユーディト」です。ユーディトは、豊かな肩・胸を露わにして、男を誘惑し、その首を掻き切っています。
 ・・・これら挫折に直面しても、ゴヤは、しばらく滅形の時期を過ごしたのち、ふたたび、がむしゃらに働きはじめていました。苦しみに克ち、怒りを鎮めるには、仕事をするしかないのです。
 ふたたび働きはじめるゴヤの姿に触れて、私のなかにも、冒頭において述べたような滅形の時期を、いつまでも送るわけにはいかないという思いが、湧いてきました。
(2)葛藤
 ゴヤは、その人生のなかで、自分の信条に背くこととなるような、行動をしたり・仕事を受けたりしていました。彼も葛藤を抱いていたのです。
・ 54歳から61歳、ゴヤが、肖像画を描きに描いて稼いでいた時期。この時期に、ゴヤは、好意を持つ必要のまったくない相手からきた注文も受け、その肖像を描いています。
 その相手としては、たとえば、司法大臣カバリェーロ侯爵。この司法大臣が、ゴヤの友人を、何人も投獄・追放しました。この侯爵の肖像を、ゴヤは、見事な筆致で・その性格まで見てわかるように、描いています。
 好意を持つ必要のまったくない相手。そういう相手からきた仕事でも、受ける。そして、その肖像を、立派に、絢爛たる悪意の表現として、したたかに描ききる。そういう態度で、ゴヤは、絵を描き・稼いでいました。
・ フランス軍がスペインを占領した時期、ゴヤは、侵略者であるナポレオン、そしてホセ1世に、忠誠を誓いました。そのうえ、彼は、フランスへスペインの美術品を運ぶ、その委員会の委員にもなりました。いわゆる売国奴に、彼は、なったのです。
・ その後、イギリス軍がフランス軍をスペインから追い出したときには、イギリス軍の将軍ウェリントン、その肖像を描いています。
 このとき、ゴヤの心中は、複雑でした。侵略者であるフランス軍が出ていったことは、嬉しい。しかし、フランス軍のもたらした、憲法をはじめとする自由思想が、無くなってしまっては困る。この困惑のなかで、描きたくもないのに描いた、ウェリントンの肖像は、とても出来の悪いものでした。
・ フェルナンドによる圧制の時代、ゴヤは、査問を免れるために、フェルナンドの肖像を、6枚も描きます。その豪華な肖像を描きながら、彼は、ひそかに、圧制を批判するデッサンを描いていました。
 ・・・ひとは、生きるために、自分の信条に背く行動をとることがある。そのことを、ゴヤの人生は、示しています。自分の信条を貫いて生きてゆきたくても、その信条に背く行動をとることによってしか、生きのびてゆくことができない。そういう機会が、とくにゴヤの生きた時代のような乱世にあっては、彼に、めぐってきていたようです。
 私も、自分の信条に背くことは、したくない。そう考えて生きてきて、しかし、その信条に背くことを、してきました。そして、今後の人生においても、自分の信条に背く行動をとる機会が、何度となく、やってくる予感がありました。こうした経験・予感からくる葛藤を、私は感じていました。そのことが、私が『ゴヤ』を読むきっかけのひとつでした。
 『ゴヤ』を読んでいるうちに、私は、つぎのように、決意を固めました。将来、自分の信条に背く、そういう行動をとる機会が、また、めぐってくるかもしれない。しかし、だからといって、私は、その信条を、あきらめたりは、しない。その信条を、いずれ、自分の行動において、実現できるよう、私は動き・働き・学びつづける。すなわち、葛藤を抱えて、なお、生きてゆく決意。その決意を、私は固めました。
(3)大患
 ゴヤの人生においては、大患が、何度も彼を襲っています。彼は、頑丈な人間ではありました。しかし、健康では、なかったのです。
・ 若い頃、ゴヤは、私費でローマに留学しました。そのローマへゆく途中、船上にて、人生最初の大患が、彼を見舞いました。当時、船での旅は、おそろしく身にこたえるものであったようです。その旅の疲れが、ゴヤを襲ったのでしょう。
・ 47歳、ゴヤはふたたび重病にかかります。この病気の原因は、彼のかかった梅毒について、治療のために水銀を使ったことでした。数ヶ月にわたる闘病の末、快復したときには、彼は聴覚を失っていました。
・ 73歳、それまで戦乱のなか、働きすぎたことがたたって、ゴヤは、またしても大病に陥りました。
・ 79歳、ゴヤの足の骨に、大きな腫瘍ができて、彼は身動きもままならなくなります。この病気にも、彼は打ち克ちました。
 ・・・若年から老年にいたるまで、大患を乗り越えて、画家として描きつづけた、ゴヤ。その姿は、将来、私を大患が見舞ったとき、私の励みになることでしょう。
(4)滅形
 若年から壮年にかけて、ゴヤには、突如として、精神が参って、絵を描くことができなくなってしまう時期があったようです。鬱状態・無力感・閉居症。それらからくる無気力に、彼は陥ります(註7)。そのとき彼が書いた手紙を、ここに引用します。
「頼むから聖母マリアに祈ってくれ、ぼくが仕事をする気になれるように、と。ぼくはまったく無力だ、ほんの少ししか仕事が出来ない」(41歳。ゴヤが友人サパテールへ書いたもの。ゴヤ1/475頁)
「真実を愛する者として申しまして、私どもの関係がごたごたしますことを私はひどく悔いています。そして私は二六時中神に、こうした事件のあります毎に、いつも私をとりこにしてしまう傲慢の心を神が私から追い払って下さるよう祈っているのです。もし私が限度というものを守ることが出来るようになり、また逆上したりもしないようになれましたら、私の振るまい方は、生涯の残りの日々のために害の少ないものとなるでしょうが」(43歳。ゴヤが義兄バイユーへ書いたもの。ゴヤ2/233頁)
 前者の手紙については、なぜゴヤが滅形に陥ったのか、原因が、はっきりしていません。
 後者の手紙は、先に述べた、タピスリー工場からの苦情に対し、義兄バイユーがゴヤをかばって調停の労をとった件にかんする、詫び状です。こうした挫折を経験して、ゴヤも滅形に陥ることがあったようです。
 しかし、この滅形の時期を経て、彼は、ふたたび、怒濤のように働きはじめます。その働き方は、歓喜にみちていました。
 41歳、ゴヤは、タピスリー工場の再開に伴い、その原画として、牧歌的・理想的な民衆生活を、存分に描きました。そのうえ、オスーナ公爵夫人をはじめとする貴族たちから注文を受け、たくさんの絵を描きました。43歳、ゴヤは、大作「カルロス4世家族図」を描き上げました。
 滅形が襲ってきても、そのまま身を任せ続けることなく、かならず立ち上がって、その腕をふるって働く。こうしたゴヤの姿は、今後、私が再び滅形に陥ったとき、私の支えとなるでしょう。

第4 本題――ゴヤの見たもの
 以上、第2及び第3にわたって、ゴヤの人生、その足どりと特色について、述べてきました。
 その人生を通じて、彼は、自分の直面した現実を、見て見て見抜いてゆきました。そのなかで、彼がつかみ・描き抜いたもの。それは「理性のない人間たちの姿」でした。
 このことについて、本項にて、詳しく述べてゆきます。
1 見ること
(1)見るとは
 かつて、私は、開高健さんについて触れた記事のなかで、人間にとっては「見ること」が大事である旨、書きました。
 その「見ること」とは、より具体的にいえば、どういうことなのか。そのことについて、堀田さんは、こう書いています(ゴヤ1/286頁)。
「要は、見ること、である。
 美術とは何か。美術とは見ることに尽きる。そのはじめもおわりも、見ることだけである。それだけしかない。
 見るとは、しかし、いったい何を意味するか。
 見ているうちに、われわれのなかで何かが、すなわち精神が作業を開始して、われわれ自身に告げてくれるものを知ること、それが見るということの全部である。すなわち、われわれが見る対象によって、判断され、批評され、裁かれているのは、われわれ自身にほかならない。従って時には見ることに耐えるという、一種異様な苦痛をしのばねばならぬことも、事実として、あるであろう」
 すなわち、「見ること」は、「考えること」なのです(註8)。自分が見たもの、そのなかから、何を読みとるのか。そのことが、人間が生きていくうえで、つねに問題となるのでしょう。ただ口をポカンと開けて見ているだけでは、本当に「見た」ことには、ならないのです。
(2)ものの見方
 見ることは、考えることでした。その考え方、すなわち、ものの見方には、いろいろな立場がありえます。
 ゴヤのものの見方も、ときが経つにつれて、変わってゆきました。その変遷について、ここで述べます。
ア 批判からリアリズムへ
 ゴヤが、はじめて刊行した版画集「気まぐれ」。この「気まぐれ」は、彼が、批判者としての立場から、描いたものでした。
 「気まぐれ」において、彼が、取り上げたもの。それは、彼の見た、民衆・貴族・宮廷の無知蒙昧、そして教会の偽善欺瞞でした。彼は、それら民衆・貴族・宮廷・教会を、愚かな動物であるロバや、醜い妖怪として、描いています。この描き方のウラには、社会と対決している、ゴヤの姿勢が、みえます(註9)。
 その後、ゴヤは、自分の見たものを、ありのままに描くようになります。
 版画集「戦争の惨禍」における、戦場の光景には、ロバや妖怪が、ほとんど登場しません。さらに、彼は、フランス兵による虐殺も、スペインゲリラによる虐殺も、どちらも、美化も何もせずに、描いています。リアリズム(註10)。それが彼の描き方に、あらわれています。
 しかし、「戦争の惨禍」では、後半において、批判者としてのゴヤが、ふたたび顔を出します。彼は、ローマ教皇を「肉食のハゲ鷹」として描く等、戦後の圧制を批判しています。この後半部分については「強烈な気まぐれ」という副題が付いています。
 そして、版画集「闘牛技」では、ゴヤの関心が、ひとと牛の動きを描き出すことにのみ、向かっています。よってたかって牛を殺す観客。牛も、闘牛士や観客を、その角で突き殺す。そういう場面も出てくるのに、それらの場面のなかに、批判めいたものが、出てきていないのです。逆に、牛と人間、その双方が躍動する瞬間を、そのままにとらえること、その喜びが、画面に踊っています。この段階において、ゴヤが「気まぐれ」において持っていた、社会と対決する姿勢は、消えてゆきます(そもそもゴヤは闘牛が大好きでした)。
 「闘牛技」におけるリアリズムには、もうひとつ、特徴があります。その特徴とは、「定型からの逸脱」です。ゴヤは、牛と人間、それらの動きを「そのままに」描くことを優先して、それまで絵画の規範としてあった、構図の約束や、正確な縮尺といったことに、こだわりませんでした。そういった定型から逸脱してこそ、言い換えれば、歪んでいてこそ、絵画は現実をとらえたことになる。歪んでいてこそ現実である。そういった、ものの見方へ、ゴヤのリアリズムは変わってゆきます。
 ゴヤのリアリズムについては、もうひとつ、注目するべき作品があります。その作品は、「王立フィリピン会社総会」です。この作品を、ゴヤは、「闘牛技」と同じ時期に、描いています。その画題ともなっている、王立フィリピン会社は、その名のとおり、スペインが、植民地であるフィリピン等を搾取するために設立した会社です。その株主総会を、ゴヤは、注文を受け、描いたのです。この総会における議長は、スペイン王・フェルナンドでした。王が議長として出席しているのですから、総会の結論は、王の好き勝手なものとなることが、誰にも分かりきっています。だから、居並ぶ株主たち(彼らはスペインの財界人たちでもありました)は、退屈を極め、だらけていました。その彼らの無様なたたずまいを、ゴヤは、そのままに描きました。こうしたリアリズムを通して、ゴヤは、この絵において、近代的なニヒリズムというべきシニカルな空間を描き出しました。
イ リアリズムから実存へ
 先に述べた「闘牛技」において、ゴヤは、「歪んでいてこそ現実である」というリアリズムに達しました。
 このリアリズムを、さらに推し進めたものが、版画集「妄」でした。「妄」において、ゴヤの描くものは、戦場や飢餓などといった現実の状景を突き抜けて、見えざる現実へと転移していきます。
 「妄」2番「恐怖のナンセンス」では、戦場に巨大な死神が立ち、その死神を見たフランス兵たちが潰走しています。
 「妄」7番「メチャクチャなナンセンス」(別名「結婚のナンセンス」)では、男と女が背中あわせに融合して、バケモノと化しています。
 この7番の構図は、「気まぐれ」にも出てきていました。75番「誰も離すことは出来ないのか?」です。この絵では、男と女は、まだ融合せず、肉体としては分離していました。この絵から「妄」7番への変化(男女の融合)は、ゴヤの持っていた、男女関係の本質にかんする認識が、さらに深まっていたことを示しています。
 深まっていたものは、男女関係についての認識だけではありませんでした。人生(3番)・人間の争い(6番)・宮廷(9番)・民衆(12番)。これら主題につき、ゴヤは、その本質として彼が考えるに至ったものを、現実の状景を突き抜けて、一見するとナンセンスにみえる絵画として、描き出しました。しかし、そのナンセンスにみえる絵画は、現実の本質を、すなわち実存を、描き出したものでした。
 人間の本質が、実存が、現実を見て見て見抜いたゴヤには、ナンセンスなものとして見えた。このことが意味することは、ゴヤにとって、「現実は、ナンセンスである」ということです。このことにつき、堀田さんは、こう書いています(ゴヤ4/321頁)。
「逆説的にこれを言うならば、ナンセンスなればこそもっとも痛切に現実的たりうるのである。
「存在するものはすべて理性的である」とするならば、ナンセンスも夢も狂気も出る幕をもたないであろう。夢、狂気、ナンセンスは、理性が理性として通りえない現実が噴出して来たとき、もっとも現実的な現実の表象としてここでも噴き出てくるのである」(註11)
 現実を見て見て見抜いた先で、実存を見出したゴヤ。彼は、「妄」の後半部分と並行して、彼の集大成となる作品群「黒い絵」を描きました。その「黒い絵」として、彼が描いたものも、実存そのものでした。
 批判からリアリズムへ。リアリズムから実存へ。それがゴヤにおける、ものの見方の変遷でした。
2 ゴヤの見たもの
 ものを見るとは、どういうことか。
 ゴヤは、どのような見方で、ものを見ていたのか。
 それらのことを、上記1では、書いてきました。
 それらをふまえて、いよいよ本題です。そういった眼を持ったゴヤが見たものは、何だったのか。それが、「理性のない人間たちの姿」でした。このことについて、以下、ゴヤの絵を引用しながら、くわしく述べます。
(1)版画集「気まぐれ」58番「犬に食わせろ!」
 この絵は、異端審問所における拷問の様子を描いたものです。拷問とは、巨大な灌腸でした。ビールびんほどもある巨大な浣腸を、僧侶が囚人に刺し込んで注入する。こんな愚かしい拷問を、異端審問所、僧侶たちの集団が、嬉々として、やってのけていたのです。
 そして、その異端審問所が、ひとびとを投獄する理由たるや、つぎのような、むちゃくちゃなものでした。
――他の国に生れたが故に。
――バイヨンヌからの悪魔の使いであったが故に。
――彼女がネズミを作ることを知っていたが故に。
――先祖がユダヤ人であったが故に。
――異端の説を述べたが故に。
――足がなかったが故に。
――メス山羊を愛したが故に。
 このような、もともとの名目がメチャクチャなのだから反論のしようもない罪状で、異端審問所は、ひとびとを投獄して、灌腸をはじめとする拷問を加えていました。
 罪状のなかには、「地球が動くことを確言したが故に」というものもありました。この名目によって、異端審問所は、ゴヤの友人を投獄しました。このとき、ガリレオが死んでから、170年も経っていました(註12)。
(2)版画集「戦争の惨禍」33番「これ以上何が出来るか」
 この絵は、フランス兵がスペインゲリラの性器を切断している図です。性器を切断したうえで、兵士たちは、遺体をバラバラに切断して、木に突き刺して、さらします(39番「死体に対しての、何たる武勇ぞ!」)。
 人間は、ここまで残虐なことも、やってのける。そこに理性はない。その光景を、ゴヤは自分の眼で見て、描き残しました。
 こうした性器切断を、ゴヤの生きた時代、それ以外の時代にも、ひとびとは、行っていました。のちに、スペイン内戦が起こったとき、共和国軍・フランコ軍とを問わずに、こういう残虐行為があったといいます。
 「歴史は繰り返さず、人これを繰り返す」という、堀田さんの言葉があります。そのとおりであるようです。時代をこえた、いつも変わらぬ、人間の本質。それを、ゴヤは描き出しているのではないでしょうか。
(3)黒い絵「わが子を喰うサトウルヌス」「決闘」
 上記(1)「気まぐれ」58番「犬に食わせろ!」は、批判を主眼とした絵画でした。上記(2)「戦争の惨禍」33番「これ以上何が出来るか」は、リアリズム、現実を、そのままに描く絵画でした。
 上記(1)・(2)を経たのち、ゴヤは、人間の実存を見出します。その実存を描いたものが、黒い絵「わが子を喰うサトウルヌス」そして「決闘」でした。
ア 「わが子を喰うサトウルヌス」
 「わが子を喰うサトウルヌス」は、その題名のとおり、巨人が我が子を大口あけて食べている絵です。子供には、もはや頭がなくなっています。巨人は、眼をむいて、いままさに、左腕から左肩にかけて、かぶりつこうとしている。そして、その股間には、勃起した男根が屹立している。この光景においては、理性もなにも、あったものではありません。
 この絵につき、堀田さんは、こう書いています(ゴヤ4/357頁)。
「この凄まじいレアリスムは、ユーモラスであったり、教訓的であったりすることは不可能である」
「これが人間だ、人間の世界だ、と魯迅のようにもゴヤは言いたかったものであろうか」
 人が人を食う。それが人間の実存である。そういう結論に、ゴヤは、その人生70年を通して、達したようです。
イ 「決闘」
 そして「決闘」は、男が二人、棍棒で殴りあっている絵です。そして、彼らの足下では、流砂が二人の足をとらえ、のみこんでいく。そのことが分かっているはずなのに、二人は殴り合いを続けている・・・
 この絵についても、堀田さんのコメントを、引用しておきます(ゴヤ4/390頁)。
「人間としてのこの二人を結びつけているものは、彼らの争いそのものに他ならないのである。ゴヤは何度も、男女が結びつけられて、あるいはシャム兄弟のように背中でくっついて分かれようにもどうにもならぬとする図を描いてきたものであった。
 人類の狂気、あるいは狂気の人類は、この世の終わりまでかかるものである、とする世界観が彼にあったものであろうか。それがなかったとは言えない」
 人間と人間が争い、その争いによって、どちらにとっても、取り返しのつかないことになる。そのようなことは、歴史のなかにも、私たちひとりひとりの人生経験のなかにも、枚挙にいとまがないでしょう。そして、そのことが分かっているのに、人間は、なお、争う。これからも、争う。
 こうしたことから考えると、ゴヤは、たしかに、人間の実存――理性のない人間たちの姿を描き出している。そう私は感じます。
(4)小括
ア 人間も動物である
 以上、ゴヤの見出したものが・描き出したものが、「理性のない人間たちの姿」だったことについて、書いてきました。
 この問題につき、堀田さんは、「戦争の惨禍」について触れた文章において、こう書いています(ゴヤ3/360頁)。
「ここにわれわれの老画家によってわれわれに差し出されているものは、すべてこれ“狂気の沙汰”と普通ならば言わなければならぬ事態であり、従って、この狂気の沙汰というものを含まぬ、あるいはそれを囲い込んで排除した、いわば理性一本槍の人間観というものは、人間観としては、人間世界にあって通行権を持たぬものだ、と画家によってわれわれは告げられているようである」
 この言葉に触れたとき、私の考え方に、ある変化が起こりました。
 私は、これまで、こう考えていました。人間は、間違ったりもするけれども、おおむね、まっとうに生きることを目指していて・理性を先に立てようとする存在なのではないか。
 この考え方には、私が大学で学んだ、法学における人間の捉え方も、影響しているようです。法学においては、とくに民法においては、人間を、こう捉えていました。「人間は、理性をもって判断して行動する、合理的な存在である」
 もちろん、それでも、人間は、他人は・自分は、理性のないふるまいをすることがある。そのことは、私も、学生時代での経験を通して、感じていました。そう感じていましたから、私は、大学を卒業するとき、つぎのように予想していました。社会に出たのち、そんな人間たちのふるまいに出くわすことが、何度か、あるだろう。
 しかし、大学を卒業してから数年間、社会に出て働いていくうちに、私の直面してきた現実は、予想をこえていました。人間は、汚く醜く生きていて、理性で考えたら筋の通りようがない行いを、平気でする。その様を、自分の行い・他人の行いを通して、何度も目の当たりにしてきました。
 そんな自分・他人をふまえて、今後、どうやって生きていったものか。そのことで、私は悩んでいました。その悩みについて、堀田さんの書いた上記文章は、考えるヒントになりました。
 そして、堀田さんと同じような文章を、以前、開高健さんも、書いていました。彼は『ベトナム戦記』(朝日文庫172頁)において、ベトコン少年の公開銃殺を目の当たりにして、こう述べています(註13)。
「人間は大脳の退化した凶暴なる劣等の二足獣にすぎないのだ」
 これら開高さん・堀田さんの言葉に触れて、私の出した、いったんの結論。それは、「人間も動物である」ということでした。人間は、理性を先に立てず、むしろ自分が満足を得るために、そして生きるために、醜く汚いこと・恥ずかしいことを平気ですることがある。
 人間は、もとから、そういう存在だったのです。そういう存在だったのに、私は、もっとましな人間像を想像していて、社会に出てから、その落差に衝撃を受けたのでした。このことをひとくちでいえば、私の認識が甘かった、ということです。
 私は、この甘かった認識を、上記した「人間も動物である」に改めたうえで、今後の人生を生きてゆくことにしました。そう考えたほうが、今後、おそらく何度も出くわす、他人の・自分の、みっともない姿から受ける衝撃を、やわらげることができるでしょう。
イ 紅の豚
 「人間も動物である」という結論に達したとき、私の脳裏によぎったもの。それは、宮崎駿さんの映画「紅の豚」でした。「紅の豚」において、宮崎さんは、主人公を、豚として描いていました。その理由が、いままでよりも、もっと深く、分かった。そういう気が、私には、しました。
 「紅の豚」について、宮崎さんは、こう語っています(『風の帰る場所』100頁)。
「要するに、もう少し現実感を持って見えてきたっていうのかなあ、よくわかんないですね。自分がこれからどうやって生きていくかっていうこととも関わってるんですよ。だから、要するに、豚を主人公にしたっていう意味は――話が逸れてくみたいですけどね――やっぱり聖人君子としては生きられない、だから、環境問題その他についても一定のリスクは払うけど、一定のバカもやろうっていうね。偉い人もいるけど、偉くなれないっていう(笑)。そうやって生きてくしかないなって思ったんです」
「なんかやっぱりねえ、なんだろうなあ、自分も含めて、人っていうのは愚かなんだなあっていう、人間が考えてるより人間は複雑で、同時にそんなに賢くないんだなっていうことをうんざるするほど思い知りましたね。だからといって、僕は理想のない現実主義者になりたいと思ってる人間じゃないですから、そういうふうになるつもりは毛頭ありませんけど」
 自分も含めて、人間は、愚かだ。その思いから、宮崎さんは、主人公を、豚として、動物として、描きました。その考え方には、堀田さん・開高さんの上記した考え方と、相通じるものがある。そう私は感じています。そして、その考え方に、私も同感です。
3 生きる力
(1)動物としての生命力
 ゴヤが、その人生を通じて、見出したもの。それは「理性のない人間たちの姿」だった。そのことを、これまで述べてきました。
 人間には、その実存において、理性がない。この結論は、絶望をもたらしかねないものです。このことにつき、ゴヤも、版画集「戦争の惨禍」において、「虚無だ」という題名の絵を描いています(69番)。戦争という現実に直面して、彼も虚無を感じたのでした。
 戦時においてだけではなく、平時においても、ゴヤは、虚無を描き出しています。先に触れた、「王立フィリピン会社総会」が、それです。その総会における、退屈しきったブルジョアジーたち。彼らの姿を、ゴヤは描きました。その絵には、近代的なニヒリズムが、あらわれていました。ニヒリズムとは、虚無主義のことです。
 戦時においても、平時においても、虚無に直面していた、ゴヤ。しかし、彼は、虚無が彼を取り巻くなか、82歳で死ぬまで、働きづめに働いて、生き抜いたのでした。彼は、絶望・厭世しなかったのです。
 それどころか、彼は、ただ働いてお金を稼いだだけの人間ではありませんでした。彼は、そのうえ、現実を、抉り出し・描きとめました。戦争の惨禍を83枚にわたって描き、さらに版画集「妄」。「黒い絵」に至っては、3年もの歳月を、そのシリーズのために費やしています。
 このように、虚無が取り巻くなかで、強靱に生きてゆくちから。そのちからの源泉は、何だったのでしょうか。このことにつき、堀田さんは、こう書いています。
「かかる、いわばフィリピン会社総会図中の、空無の大空間のような思想的空白時には、人は、これも前記総会図中の人物たちのように無駄なお喋りで時を過すか、それともスペインをも含む多くのロマンティクのように「宇宙は夜の闇のなかに沈んだ」(ネルヴァル)として絶望するか、どちらかになりやすいものであったが、われわれの精力的な老人は、耳が聞こえないせいがあって前者にはなりえず、またアラゴンの岩砂漠の真の闇の怖ろしさを知る者としてロマンティクではありえなかった。
 彼は、たとえば「5月の3日」夜の処刑図において、版画集「戦争の惨禍」において、またこのすぐ後に言及する多数のデッサン画帳において、人間が人間に加えることの出来る、ほとんど無限と思われる残虐の可能性を批判し、指弾をする。
 ゴヤは憤激し、弾劾する。
 けれども、その怒り、憤りといえども、人生がそこに根源をおいている、あるかたちなき歓び、あるいは歓びの記憶を消すことがなかった。
 憤激し、弾劾し、指弾する。すなわち、その対象となる行為、あるいは存在を描くこと自体が、彼の生の原動力となって行くのである」(ゴヤ4/89頁)
「ゴヤが自分の仕事のための源泉としたものも、また手段としたものも、初期の仕事は別として、法則的なものではまったくなかった。それは、言うならば生命エネルギーそのものである」(ゴヤ4/91頁)
「モティーフとなり源泉となっているものは、つねに死と隣り合った生命エネルギーなのであって、ギリシャのわらじではない(みずうみくじら註:ギリシャのわらじとは、新古典主義のこと。新古典主義とは、理性(古典)を先に立てて現実を捉えようとする絵画手法のことです)。そうして死は暗黒であり、理性の通用する世界ではない。暗黒は、魑魅魍魎の住み家でもある」(ゴヤ4/91頁)
 ゴヤの生きる力。その源泉は、生命エネルギーそのものだった。このことについて、私は、つぎのように解釈しました。
 先に、私は、「人間も動物である」と書きました。「動物である」ということは、「人間には、その実存において、理性がない」という意味でした。この考え方は、否定的なものを含んでいました。人間も動物である、その虚無に直面して、そのことにつき、理性で考えたら(!)、人生には・社会には、意味も・意義も、見出すことはできない。絶望だ、厭世だ。そういった方向へ進んでいったひとびとが、堀田さんの言葉に出てきた、ロマンティクたちでした。
 しかし、逆に、この考え方を利用して、私たちは、肯定的な方向へ、進むこともできます。それはつまり、こういうことです。
「人間も動物である」
「人間には、その実存において、理性がない」
「人間が生きるにあたって、その人生に・社会に、意味・意義を見出すもの、それは理性である」
「だから、人間が生きていくにあたって、意味・意義というものは、なくてはならないものではない」
 すなわち、人間も動物なのですから、その人生に・社会に、意味・意義を見出すことができなくても、すなわち虚無に直面しても、人間は動物としての生命力を発揮して、生きていくことができるのです(註14)。
 それが、堀田さんのいう「ゴヤの仕事、その源泉は生命エネルギーそのものである」、その言葉の含意するところなのではないでしょうか。
 ゴヤも、動物としての生命力、人間がその実存において持つ力を発揮して、激動の時代、虚無のなかを生き抜き・描き抜いたのでしょう。そのゴヤに、私も倣います。私が、今後、さらなる人間の醜さに直面して、挫折して、葛藤を抱えることになっても、私は動物としての生命力をもって、生き抜いてゆきます。
 ここまで考えが及んだとき、私は、高校時代に自分が考えていたことを、思い出しました。その考えていたこととは、こういうことでした。
「人間は、努力する理由が見つからなくても、努力しなければならない」
 高校時代、私は、「勉強する理由が見つからない」といって、何もせず、怠惰な日々を送っていました。しかし、その反面、「このままでは、生きてゆく力が身につかず、今後の人生を生き抜いていくことができない」といった焦燥も、私は感じていました。そして、ある日、私は上に述べたように、決意したのでした(註15)。
 高校時代の私が出した上記結論と、現在の私が出した・先ほど述べた結論は、まったく同じといっていいほどに似通っています。かつての私が出した、いったんの結論。その結論に、10年後、私は『ゴヤ』を通じて、さらに認識を深めるかたちで、ふたたび到達したのでした。
(2)突き抜けたニヒリズム
 人生に・社会に、虚無を感じる。それでも生きてゆく。このことについて、上記(1)のように考えたとき、私は宮崎駿さんの言葉を思い出しました。宮崎さんは、このことについて、「澄んだニヒリズム」「突き抜けたニヒリズム」という言葉を使っていました。
「忘れられないのは、
「人間は度しがたい」
 と司馬さんがおっしゃった瞬間でした。堀田さんが坐りなおしつつ、
「そうだ。人間は度しがたい」
 と応えたのです。大きな元気な声でした。
 堀田さんは、牛車に折りたたみ式の方丈を乗せて、京をすてて山へ入っていく鴨長明のようでした。
 司馬さんは、天山北麓のみどりの斜面の、馬にまたがった白髪の胡人のようでした。
 私はとり残された裏店の絵草子屋のようでした。
 (中略)
 茫然としながらも、おふたりの言葉は私の気を軽くしてくれました。澄んだニヒリズムというと、誤解をまねくでしょうか。安っぽいそれは人を腐らせ、リアリズムに裏づけられたそれは、人間を否定することとはちがうようです」(『時代の風音』朝日文庫259頁)
「まあ、社会主義で人が幸せになるとは僕はとっくの昔に思ってないですからね。だって、生産手段なんてみんなで分けたってしょうがないじゃない? それはもう確実ですよ。むしろそういうことを学びながら日本は会社社会主義を作っちゃったんだからね。これは企業社会主義です。そういうことでなんか疎外がなくなるかっていったらね、人間っていうのは必ず疎外っていうものと共存している生き物だっていうね、そういうことも含めてです。だから、少しずつ賢くなっていくのかなあ。よくわかんないですね、これ。
――少しずつ賢くなっていくと思わなければニヒリズムになっちゃいますよ。
 僕、安直なニヒリズムっていうのは嫌いだけど、突き抜けたニヒリズムっていうのは悪くないと思ってますからね。だから、僕は学生のときに堀田さんの「広場の孤独」を読んで日本嫌いになるのはやめようと思ってね。嫌いだけどいなきゃいけないっていうふうに決めて。その後やっぱり節目節目で彼と出会ってきちゃったんです」(『風の帰る場所』125頁)
 宮崎さんのいう、澄んだニヒリズム・突き抜けたニヒリズム。それらの言葉に、私は、魅力を感じ続けてきました。それらの言葉の意味が、上記(1)に書いた考察を通して、前よりは、もうすこし深く、わかった。そんな気が、私には、しています。
 虚無に直面しても、生きていく。それが「突き抜けたニヒリズム」なのではないでしょうか。
4 理性へ
 ゴヤは、動物としての生命力を発揮して、激動の時代、虚無のなかを、生き抜き・描き抜きました。
 それでは、彼は、その生命力を、どこへ向けたのか。その向けた先は、「理性」へ、でした。理性のない人間たち、そのありようを、人間の実存として描いたゴヤ。彼は、その認識に到達しても、それでもなお、理性を目指したのでした。
 このことについて、堀田さんは、こう書いています。この文章は、ゴヤの描いたデッサンのうち、異端審問所による投獄・拷問のありさまを描いたものについて、触れたものです(ゴヤ4/221~222頁)。
「18世紀人としてのゴヤは、ここでもラヴァテルの人相学、観相学を、おそらくは無意識に援用しているのであって、肉体の有り様によって、いわば英雄と挫折者を、ひそかに分別していると思われる。根本的、かつ本質的にこの画家は骨太い18世紀合理主義者なのであって、いかなる場合にも、希望を何処にも見出せぬ19世紀ロマンティクではない。この人は、もう一度いかなる場合にも、という言い方を使うことを許してもらうとして、たとえば19世紀ロマンティクの典型としてのボードレールのようには“Anywhere out of the world”(どこでもいい、この世の外なら)などと言い出すことはありえないのである。
 ここで、18世紀合理主義者(rationalist)という言い方が曖昧であるとされるならば、それを理性にもとづく進歩主義、と言い換えてもいいであろう。あくまで理性にもとづいて、たとえ獄屋にあろうとも、いずこにあろうとも、断乎として背筋を伸ばして立ってあること、それが自由への、従って真理への道であることを、この画家は、示唆というよりはもっとあからさまに、描き出しているものと思われる。宗教的迷蒙に打ち砕かれた者、あるいは誤った理念、迷信などに囚われ、そこで挫折をする者などは多くの場合、顔が影にかくされていたり、少くとも全身を光のなかで描かれることがほとんどないのである。
 自由と真理への道についての、途中にいかなる苦難が待ちかまえているにしても、さもあらばあれ、かかる、いわば合理楽観主義は、西欧にあってはこの時期(1810年代)にはすでに陰りを見せて来ていたものではあったが、ピレネーの此方には依然として信念をもって生きられていた。いかに彼が幻滅街一番地の住人であったにしても、彼は断じて幻滅したロマンティクではない」
 理性にもとづいて生きていくことの大切さ。その大切さを、私も感じます。それでは、理性にもとづいて生きていくことが、なぜ大切なのでしょうか。そのことについて、立ち止まって考えてみたとき、私の脳裏に、司馬遼太郎さんの言葉が、浮かんできました(『風塵抄』第2巻79頁)。
「ヒトという動物は、社会を組んで生きている。もしヒトがもつ自然――欲望――を野放しにすれば、たがいに食いあって社会をほろぼしてしまう」
 この司馬さんの言葉を、私なりに、もう少し敷衍します。
 人間も動物である。人間には、その実存において、理性がない。そういったことを、私は、これまで、本稿において、述べてきました。その一方で、人間が、その理性をもって、自分たちの暮らす社会を建設して、その社会を支えている、そのこともまた真実なのです。
 たとえば、法を守ること。あるべき法の姿を考えること。そのとおり法を制定・改正すること。これらの行為は、人間の抱く、理性の働きによるものです。これら理性の働きがあってはじめて、私たちの暮らす社会は成り立ちます。すなわち、理性の働きがあってはじめて、私たちは毎日を暮らしていくことができているのです。
 私たちは、自分たちの暮らす社会を建設するために・維持していくために、そして何より自分が生きていくために、理性にもとづいて生きること、そのことを目指すべきなのではないでしょうか。
5 総括
 堀田さんの示した、ゴヤの姿は、私を勇気づけます。理性のない人間たちの姿、その姿からくる虚無に直面しても、それでも理性を目指して生きたひとが、ここにいたのです。
 また、「彼は断じて幻滅したロマンティクではない」という堀田さんの言葉に触れて、私は、これまで、「私は幻滅を感じた」などと書いてきたことを、恥ずかしく感じました。
 私も、ゴヤの生きる姿に、共感します。
 私は、他人の・自分の、醜く汚い有様を見てきました。そして、そういう有様に、私は、今後も、何度も出くわすでしょう。すなわち、私は、理性のない他人・自分のすがたに何度も直面して、何度も挫折して、たくさんの葛藤を抱えて、生きてゆくことになるでしょう。それら挫折・葛藤によって、私は、滅形にも、たびたび、陥ることになるでしょう。
 理性のない、他人の・自分のすがた。それが人間の本質であり、人間の実存なのです。
 そのことを認識したうえで、それでも、私は、まっとうに生きてゆくことを、あきらめたくない。このことは、【映画を読む】コクリコ坂からに書いたとおりです。
 まっとうに生きてゆく力、その源泉となるものは、動物としての生命力です。動物である人間が生きていくためには、意味・意義は、そもそものところでは、いらないのです。人生の・社会の虚無に直面しながら、それでも、私は、動物としての生命力を源泉として、生きてゆきます。そして、まっとうに生きてゆくことを目指します。
 まっとうに生きてゆくこととは、理性にもとづいて生きてゆくことです。理性にもとづいて生きてゆく、そのことがあってはじめて、私たちは、自分たちの暮らす社会を建設する・維持することができる。そして何よりも、その建設・維持を通して、自分が生きていくことができているのです。そのことを見落として、他人を・自分を、理性から解放してしまったら、最後には、自分の首を絞める結果になってしまう。そう私は思います。
 しかし、人間も動物ですから、いかなるときでも理性にもとづいて、人生を全うすることは、そもそも、できない。すなわち、まっとうに生きてゆくことを目指すことは、地平線を目指すことと同じことなのでしょう。いくら近づこうとしても、到達できない。それでも、私は、その地平線を目指して、生きてゆきたいです。
 まっとうに生きてゆくこと。理性にもとづいて生きてゆくこと。そのことについて、私は、ここで自分の決意を表明しました。しかし、じつは、「そもそも理性とは何なのか」ということが、問題になりえます。でも、そのことを考えはじめたら、おそらく、きりがありません。その答えに代わるものとして、私は、【作家を読む】開高健さんにおいて、到達した考え方を、ここに引用しておきます。「まっとうに生きることとは、まっとうなこととは何なのか、考え続けることなのではないか」
 まっとうに生きてゆくこと。
 理性にもとづいて生きてゆくこと。
 まっとうなこととは何なのか、考え続けること。
 これら三つの生きる姿勢は、すべてイコールで結ぶことができるのではないか。そう私は感じています。そして私は、まっとうなこととは何なのか、考え続けてゆきます。
 以上が、私の抱いていた、冒頭に述べた問題意識に対する、私自身からの(いったんの)答えでした。

第5 個人的な体験
 さて、私は、これまで、観念論を積み重ねてきました。その観念論のなかで、いったんの結論も出しました。
 本項では、その観念論を考えるきっかけになったもの、すなわち、これまで私が直面してきた、他人の・自分の汚さ・醜さについて、具体的に書きとめていくことにします。
1 克服
 以前に書いた【作家を読む】開高健さんにおいては、私は、他人の・自分の汚さ・醜さについて、具体的に記述することを、避けました。
 しかし、私が『ゴヤ』を読み進めていくなかで、そこに載っていた、堀田さんの言葉が、私を触発しました。その言葉は、「黒い絵」シリーズについてのものでした(ゴヤ4/419~420頁)。
「この“ロウ者の家”の壁の14面は、彼自身の内部を、内から外へ、内部から壁へと移したものとも言える筈であって、わが子を喰うサトウルヌスや、魔女たちや、犬をはじめとして死の近いことの自覚などを描いたもののなかに彼自身が生活し得るとは、それはいったいどういうことなのか、とわれわれをして終局的に問わしめるていのものである。
 気が変なのか?
 それとも、気が強ければこそ、これらのもののなかにいて暮らすことが出来るのか?

 これらの問いは、画家ゴヤについてのもっとも根本的な問いである。
 しかしこの問いに対しても、これがゴヤなのだ、これが画家フランシスコ・デ・ゴヤ・ルシエンテスなのだ、これが彼が長く戦ってきた彼の矛盾にみちた人生そのものなのだ、という答えがあるのみである。
 しかも強い心と自由な技術が、戦いかつその戦いを克服して、人間の実存そのものに内在する狂気と、獣としての慾情をも描き切ったとすれば、壁に定置された精神の魔物たちは、爾後彼の精神の平和を保証するものと化してくれるものかもしれない。
 芸術家における心の平和とは、かかる矛盾した過程によってしかもたらされないものなのであろう。それこそが現代の芸術家の在り様そのものであろう」
 自分が戦ってきたもの、その戦いを克服して、相手を描き切ることによって、自らの精神の平和を保つ。それが、私にとっても、有効なのではないか。そう私は考えるようになりました。
 そして、その戦う相手は、他人だけではありません。その相手には、自分も入っています。このことについては、堀田さんが「気まぐれ」について触れた文章のなかに、こうあります(ゴヤ2/420頁)。
「社会の「過誤と悪徳」、「狂態と愚行」、「偏見と欺瞞」、「無智と利害」――しかしゴヤは道学者ぶって、一方的に自分の方から酷評を加えているのではない。彼自身、アラゴンの曠野から攻めのぼって現在の地位、――1799年10月31日、ゴヤは首席宮廷画家に任命せられる――画家として位人臣を窮めるにいたるまで、いったいどれほどの策略や狂態、愚行、偏見、欺瞞等々を働き、何人の人間の足をひっぱったことか。振りかえってみれば、カッコのなかの対話はすべて自分自身とのものである」
 これまで、自分も、いったいどれほどの策略等によって、他人の足をひっぱってきたことか。この言葉は、私にも当てはまる。そう私は感じました。
 以上、述べてきたとおり、『ゴヤ』を読んで考えた結果、私のなかで、他人の・自分の汚さ・醜さを書く、その機が熟したのでした。
 他人の汚さ・醜さを書くことは、先ほど述べた克服という意味よりも、もっと卑近な意味でいっても、その他人と同じ轍を踏むことがないようにするために、有効でしょう(もっとも既に踏んでしまっている轍もあります)。同じく卑近な意味において、自分の汚さ・醜さを書くことは、自分がこれから克服するべき課題を明確にする、ということにもつながります。
 前置きは、ここまでにしましょう。それでは、次項において、具体的な記述に移ります。
2 他人・自分の汚さ・醜さ
(1)A
 Aは、私の上司でした。
 このひとの特徴は、むき出しにした性欲でした。朝、私が職場を掃除していると、Aの机の下に、黒いビニール袋が転がっていました。そのなかを見たら、ブラジャー・女性の写真・コンドームが入っていました。
 もうひとつの特徴として、高すぎる自尊心、というものもありました。最初にAと話したとき、Aは「私のような仕事ができるひとは、東京に数人しかいない」と語っていました。その自負からか、Aは、大量の仕事を抱え込み、自分でも処理しきることのできない状態になっていました。滞留している案件について、顧客から電話がかかってきても、いつも居留守を使っていました。居留守を使うことによって、「自分は忙しい売れっ子で頑張っているのだ」という、屈折した満足を覚えているようでした。
 滞留していた業務のなかには、2年間にわたって放置しているものもありました。そういった放置が目に余るので、Aの同僚が、そのことを注意すると、Aは逆上。パワハラを受けたとして、職場を飛び出してしまいました。そのことを知らずに、次の日、出勤した私の机のうえには、「退職したので本日の面談はキャンセル」というメモ書きが置いてありました。そのキャンセルする面談が、2年間、放置していた顧客とのものでした。このキャンセルにかんする連絡は、Aが自分で顧客へするべきものです。しかし、連絡しろと私からAに言っても、Aは、するはずがありません。やむなく、私は、その顧客に、面談が一方的にキャンセルとなった旨を、連絡しました。顧客は、もちろん困惑していました。顧客から話を聞くと、これまで何度も何度も電話したのに、いつも留守だったうえ、以前、約束した日時に行ったのに居なかったこともあったそうです。その顧客は、私に、「連絡を下さい、という伝言を、大きな貼り紙でAに伝えて下さい」と頼みました。そこで、私は、A4用紙16枚に拡大した文書を作って、Aの机に貼り付けました。これくらいのバカバカしい大きさにしないかぎり、Aが反応することはない。そう私は、そのとき考えていました。これまでも、A4用紙1枚くらいの大きさの連絡メモを置いていても、Aがすぐゴミ箱に捨ててなにも対応していない姿を、私は幾度となく見てきていたからです。その貼り紙を見て、Aは怒り、私に「おまえのやったことは不法行為だ」と、難癖を付けてきました。その難癖に対し、私は、こう返事しました。「2年間にわたる業務の放置は、懲戒の対象にもなる。二度と繰り返さないよう執務しなさい」。この返事を送ってから、Aから私には、何の連絡も来なくなりました。そして、その後、Aが、その職場に戻ってくることは、ありませんでした。
 あとでAの同僚から聞いたところ、Aが突然に退職したのは、じつは今回で二度目なのだとのことでした。前回は、同僚からAに、「Aの力が必要である。戻ってきてほしい」と頼み込むかたちにしたといいます。そうしたら、Aは満足して職場に戻ってきたのだそうでした。
 その後、しばらくして、Aは、児童買春の罪状で捕まりました。
 なお、Aには、高級志向もありました。Aは、顧客と帝国ホテルに同行して、そのレストランにて、高価な食事を、顧客にごちそうしていました。
 以上、Aの汚さ・醜さについて書いてきました。
 逆に、私のほうでの反省としては、「もっと内情を、よく知ってから、この職場に就職するかどうか、決めたほうがよかった」という思いがあります。当時、私は成年後見業務だけに興味が向かっていて、内情も待遇もおかまいなしに、求人の出ている・成年後見業務に携わっている、唯一の職場だった、そこに就職してしまったのでした(註16)。
 また、巨大な貼り紙については、「あれくらいしないと伝わらなかった」という思いが今でもある反面、「あまりにバカバカしくて愚かな行為だった」という思いも、私のなかにあります。
(2)B
 Bは、私の勤めた職場の長でした。
 Bの特徴は、自分の知識・経験にかんする自尊心、その高さでした。Bは、私の無知について、よく私を叱りました。無知とは、たとえば、保証会社による抵当権の設定登記において、取扱店を表示することはできない、そのことを知らなかったことでした。そのときの文句は、「いまの合格者は、この程度なのか」などでした。その一方で、Bには、自分が間違っていることを認めない傾向がありました。たとえば、実務上、重要な書類である職務上請求書について、誤った書き方が職場に定着していることを、私からBに指摘したら、Bは自分も前から知っていたのだというような素振りを見せたうえ、黙り込んでしまいました。
 もうひとつ、Bの特徴としては、高級志向、というものもありました。顧客を接待するために、宝塚に連れていっていました。また、高級な寿司屋に職員を連れて行って、職員が楽しんでいないと不機嫌になる、といったこともありました。このことについて、あとでBのことばを、ほかの職員から伝え聞いたところ、私は「世の中には、こんなにおいしいものがあるんだ」と、感動しなければいけなかったのだそうです。
 高級志向ともつながる話として、Bは、最先端の金融法務である不動産証券化に、取り組んでいました。その業務に、Bの職場は、特化していました。従って、リーマンショック後、不動産証券化が下火になったとき、Bの職場には、仕事がなくなってしまいました。仕事がないので、私は、エアコンを掃除したりしていました。そして、Bは私に、試用期間3ヶ月をもって雇用を終了する旨、伝えました。雇用終了にかんする名目としては、「不況が来て、経営が、これから、どうなるか、わからなくなった」とのことでした。
 以上、Bの汚さ・醜さでした。汚さ・醜さといっても、このひとは、だいぶマシなひとでした。
 たとえば、Bは、雇用が終了する1ヶ月以上まえに、そのことを私に通告するなど、法規は、最低限、守っていました。
 逆に、私の側における反省点としては、自分の実力が、登記業務にかんして不足していた、ということを感じています。私がBから受けた叱責は、理不尽なものではなく、仕事上、筋の通ったものではありました。
 そのうえ、この職場に就職するとき、私は、Bからの内定に対する返答期限を、1週間、こちらの都合で延ばしました。こちらの都合とは、並行して就職活動していた地方銀行・信託銀行からの返事を待つためでした。すなわち、私自身、登記業務に取り組む覚悟が、まだ、ついていなかったのです。この延長によって、Bは、人手が足りなくなって、もうひとり、余計な人員を採用する羽目になりました(そのひとも、私と同時に雇用が終了する通告を受けました)。
 さらに、返答期限を延長する際、私が待遇について細かく質問したことも、Bの勘にさわったようでした。Bは、「経験もないのに何を言っているんだ」というような思いを、私に対して抱いたようでした。その思いが、Bから私への上記叱責につながっていったようです。
 そして、私自身、焦って、この職場に就職してしまった。そういう思いがあります。というのも、先に述べた、銀行への就職活動は、結局、失敗。この失敗について業を煮やした私の父が、「実家に暮らしているお前は、いま、居候なんだ! いますぐ、その職場に決めろ!」と、私を怒鳴りつけました。そのことに動揺した私は、そのままBの職場に、就職を決めてしまいました。しかし、私はBに対して、面接において、あまりいい印象を抱いていなかったのです。Bは、面接において、歯に絹を着せない、つっけんどんな態度を、私に対して、とっていました。
 以上、Bの職場におけるトラブルは、つまるところ、私の登記業務に取り組む覚悟が固まっていなかったこと、そして、実力不足、さらに、私が自分で十分に考えず、父親の一声で就職してしまったこと、それらが原因のうち大きな部分を占めていました。
(3)C
 Cも、私の勤めた職場の長でした。
 このひとは、私の出会ってきたひとびとのなかでも、とくに自尊心の高いひとでした。そして、癇の強い、すぐに激高するひとでした。
 自尊心についていえば、Cは、自分がいつも正しくて、周りが間違っている、そういうことにしないと気の済まないひとでした。
 Cの職場に就職して間もないころ、Cは、私に対し、自分が商業登記にかんする有名な研究会に入っていることを、自慢しました。さらに、「昔は会社法務に取り組んで、あれこれの手続を受任して、とても苦労した」といった自慢も、よく、してきました。この自慢について、心から尊敬するそぶりを見せないかぎり、Cは不機嫌になりました。
 こういうこともありました。飲み会が終わって帰るにあたって、Cは、自分の靴がないと言い出しました。自分は、靴を、たしかに、この棚の・この箱に入れた。そうCは、店員に対して、言い張っていました。しかし、その箱から靴は見つからず、Cはスリッパを履いて帰宅しました。あくる日、その店からCへ電話がかかってきて、同じ棚の別な箱に、Cの靴が入っていたことが分かりました。このことにつき、Cは、事情をよく知らない部下たちに対し、自分が靴を忘れたのではなくて、同席していた、もうひとりの所長(共同経営だったのです)が靴を忘れて、店で騒いだのだと、事実を歪曲して説明しました。底の浅い嘘でした。
 事実を歪曲して、自分が恥をかくことがないようにする。自分の自尊心に、傷が付かないようにする。このような行いは、彼にとって、常套手段でした。
 事実の歪曲については、他にも、こういうことがありました。彼は、ある日、私に対して、身元保証書を親から取ってくるよう、求めてきました。これに対して、私が「身元保証書を、ほかの部下たちからも取っているのですか?」と聞いたところ、Cは「取っているよ」と答えました。しかし、その問答を聞いていた、ほかの部下がその場にやってきて言うには、「私は身元保証書を出していません」。結局のところ、Cは、どの部下からも、身元保証書を取っていなかったのでした。事実を偽ってまで身元保証書を取ろうとするCの態度に不信を覚えた私は、身元保証書を、出しませんでした。
 この身元保証書にかんする経緯を通して、恥をかいたかたちになったCは、私を目の敵にしはじめました。まず、Cは、身元保証書を出すよう、業務時間の内外を問わず、何度も・何時間にもわたり、私に食い下がるようになりました。さらに、Cは、私のやることなすことについて、文句をつけるようになりました。その文句を、以下、いくつか列挙します。
・ 抵当権の抹消登記。この登記手続について、従前は、申請人である所有者の意思確認をせずに、司法書士が銀行から書類をもらって勝手に申請する、そんな慣行がありました。しかし、近年になって、司法書士会が、その慣行を改め、所有者の意思を必ず確認する、そういった方針を打ち出しました。その方針に基づいて、私は、所有者に連絡をとろうとしました。その私に対して、Cは、こう文句を付けました。「それでは銀行から来た書類を信用しないことになる。銀行は気分を害する。そうなると顧客を失うことになる。お前は司法書士会の方針に従って安心を得たいだけだろう」
・ 会社の合併における、債権者に対する公告手続。この手続きについて、過去、決算公告を出していない会社は、合併公告に決算公告を合てつするかたちにすれば、公告が一回で足ります。しかし、Cは「そんな合てつは危険だ、なぜそんな危険な手続きをふむんだ」と私に説教したうえで、決算公告・合併公告を、それぞれ一回ずつ出すように指示。合計で2回、公告を出すことになって、もともと厳しかったスケジュールが、さらに厳しさを増すことになりました。
・ 商業登記にかんする手続。その依頼者である会社においては、同一人物が、唯一の株主であり・唯一の取締役でした。この会社について、法律上は、株主総会議事録・取締役決定書を、両方とも作成することが必要な手続につき、Cは、「この場合、株主と取締役が同一人物なのだから、株主総会議事録を作成するだけでいい。取締役決定書は、いらない」と言い張りました。しかし、そんな省略ができるとした先例・判例は、ありませんでした。
 ・・・このように、私のやることなすことについて、注意・説教が続くので、私は、Cに対して、ことあるごとに判断をあおぐようになりました。注意・説教の先手をうって、それらが来ないようにしようとしたのです。そうしたらそうしたで、Cは、私に対して「自分で判断できないのか!」と激高しました。
 こういった注意・説教による圧迫を受けた新入社員は、同僚に聞いたところ、ここ1~2年で、私が数人目だとのことでした。私よりも前に入った新入社員たちは、みな、短期間で辞めていました。すなわち、Cは、これまでも、自分の気に入らない新入社員に対して、圧迫をかけて、辞職するように仕向けてきていたのでした。
 こうしたCからの仕打ちについて、私も、おかしいことはおかしいと、真っ向から衝突していました。衝突が、しばらく続いて、私も、さすがに疲れてきました。そこで、Cとの関係について、私は同僚に相談しました。その同僚からは、「この職場で働き続けたいのだったら、Cに詫びを入れて、その言うとおりにするしかない」との言葉が返ってきました。そのとおり、これまでの経緯について私からCに詫びを入れたところ、Cは、私の待遇を、労働保険のないアルバイト扱いにする旨、書面を作成して、私に、その書面への押印を求めてきました。なお、この件につき、退職後、分かったことがあります。Cは、そもそも私を正社員として扱っていた期間においても、私について労働保険に加入する手続を、取っていませんでした。
 しまいには、Cは、私に対して、「お前とは錯誤により労働契約が成立していない」と主張するようになりました。
 しかし、そのことばどおり退職したら、私は、つぎの就職先が見つかるまで、しばらく収入を失ってしまいます。そこで、私は、労働契約は成立しているとして、ふたたび、Cとの衝突をはじめました。その衝突のねらいは、Cをねじ伏せて職場での安泰を確保すること、または、Cから退職勧奨がくるように仕向けて、退職条件にかんする交渉を、有利にすすめることでした。
 Cとの衝突は、つぎのようなかたちで、ピークに達しました。その頃、Cは、私に、電話に出ることを禁じていました。しかし、私は、Cが接客している目の前において、あえて電話に出ました。そのことについて制止するCの言葉を聞かずに、何度か電話に出ているうちに、癇の強いCは、すぐに怒り出しました。怒り出したCと私は、顧客の前で口論を始めました。
 この状況を見るに見かねて、これまで傍観していた同僚たちが、Cと私との間に、仲裁に入ることになりました。
 その仲裁としての話し合いの場で、私から辞表を出すよう促す、Cそして同僚たちに対して、私は4時間にわたって反論。口論にお互いが疲れきった末、Cは私に頭を下げました。これに応じて、私もCに頭を下げました。そして、Cが私に解決金を支払い、私はCに対し辞表を提出するかたちで、話が決着しました。
 以上が、Cの汚さ・醜さでした(私も相当、汚く・醜いですね)。高すぎる自尊心による、事実の歪曲、他人への理不尽な強制、違法な執務。それらが彼の特徴でした。
 ひどいひとだった。そう感じる一方で、私は、Cとのトラブルについても、自分の実力不足を感じました。
 というのも、そもそも、Cが私に対して身元保証書を出すように促してきた、そのきっかけは、私の失敗だったかもしれないのです。その失敗とは、たとえば、取締役会の議事録、その記載につき、誤った内容のまま、顧客に送ってしまった、等。
 さらにいえば、私に十分な実力があったら、早々にCを見限って、つぎの職場を探すこともできたはずです。もっといえば、独立開業することもできたはずでした。
 また、私のCに対する戦い方も、乱暴でした。顧客の前で、Cと、わざと口論する。この方法は、顧客にとっては、大きな迷惑であったはずです(註17)。
(4)D
 Dは、私の勤めた職場の幹部たちでした。
 Dの職場は、債務整理に特化していました。債務整理業務につき、私の就職した当初、Dは、毎月150人、受任していました。それが、私が退職する頃には、毎月400人になっていました。そして、それぞれの顧客から、相場の3倍にもなる報酬を、取っていました。
 相場の3倍にもなる報酬。この報酬水準を正当化するためには、その水準に見合った、質の高い仕事を、提供する必要があります。しかし、Dは、そういった質の高い仕事を提供するような業務態勢は、とっていませんでした。その業務態勢は、分業制。すなわち、債務整理の作業局面ごとに部署を作って、40人におよぶ職員を雇って(のちに70人まで増えました)、各部署に振り分ける。そして、個々の案件を、まるでベルトコンベアへ乗せたかのようにして、各部署において、右から左へ、質の低い、単調な作業によって処理していました。以下、質の低い単調作業の例を、挙げてゆきます。
・ 私の就職した当初は、借金の分割払い計画、そのうち月額・回数について、顧客と相談しないまま、勝手に貸金業者と和解していました。
・ 分割払いについて和解のできない、強硬な貸金業者を、債務整理の対象から外して、そのほかの貸金業者についてだけ、受任していました。
・ 破産を検討したほうがいい顧客についても、分割払いのほうが業務として簡単なので、無茶な月額・回数の和解を組んでいました。
・ 貸金業者に対して過払い金を返還請求する訴訟につき、その準備書面をコピー&ペーストで作成していました。その内容確認も、杜撰でした。たとえば、コピー&ペーストして、原告の氏名を直さないまま、その準備書面を裁判所に提出してしまった、そういう事件がありました。
・ 司法書士としての資格を持っていない、または、司法書士として登録していない、すなわち、顧客に対して責任を取ることのできない、そういった職員が、顧客と面談していました。さらに、その後、そういった職員を、和解交渉における、顧客の意思を確認する作業にも当てる、そういう方針も打ち出しました。こういった業務態勢をとる理由は、「たくさんの案件を受任・処理するためには、有資格者だけでは足りないから」というものでした。
 ・・・これら、杜撰な業務態勢に加えて、Dにおいては、その職員たちとの間に、こういうこともありました。Dに勤めていた職員たち、彼らとの労働契約を打ち切り、別な会社(その取締役はDの幹部たち)を立ち上げて、その会社と彼らとの間で、再度、労働契約を結ぶ。このようなかたちに、労働契約を切り替えることによって、Dの幹部たちは、最終的には自分たちが無限責任で負うはずだった、数十人分の賃金支払債務を、免れたのでした。
 Dの幹部たちがとっていた、上記方針・態勢は、つまるところ、自分たちの抱えた負担を、他人に転嫁するものでした。その他人とは、顧客・職員・有資格者たちでした。このことにつき、その意味内容を、ここで詳しく述べてゆきます。

ア 顧客
 Dの幹部たちは、あまりにもたくさんの顧客・職員たちを抱えてしまった。だから、大量に案件を受任するしかない。そして、個々の顧客から法外な報酬を取るしかない。それなのに、個々の案件を、杜撰に処理するしかない。ここにおいて、Dの幹部たちから顧客への、負担の転嫁があります。
イ 職員
 そのうえ、抱えすぎた職員たちについては、いざというとき、Dの幹部たちの個人財産では、彼らの賃金を払いきることができない。それを払うことになったら、Dの幹部たちは、破産してしまう。そこで、職員たちにかんする労働契約を、別な会社に移す。すなわち、Dの幹部たちが負う、職員たちに対する、無限責任を、断つ。ここにおいては、Dの幹部たちから職員たちへの、負担の転嫁があります。
ウ 有資格者
 さらに、あまりにもたくさん抱えた顧客・職員たちのために、もっと大量に案件を受任して・右から左へと杜撰に処理するべく、Dの幹部たちは、無資格者に、有資格者のするべき業務を任せていました。こうした業務態勢には、懲戒・注意勧告を受ける危険があります。そして、以前、懲戒を受けた法人においては、そこに勤めていた有資格者につき、司法書士会が会員証を取り上げ・返さずに、その有資格者が、事実上、その会において執務することができなくなったことがありました。すなわち、懲戒・注意勧告を受けたら、Dに勤めている有資格者にも、負担のかかる危険があるのです。このように、先に述べた業務態勢においては、Dの幹部たちから有資格者たちへの、負担の転嫁がありました。

 こうしたかたちで顧客・職員・有資格者を扱っていた、Dの幹部たち。彼らは、それでも、自分たちが正しいと考えていたようです。彼らの語っていた言葉は、こういうものでした。「私は多くの人々を救っている」「無資格者に業務を任せる理由は、顧客のためです」「綱紀委員の見解に従えと貴方は言うけれども、貴方自身の倫理は、どうなっているのですか」
 こうしたDの幹部たちに対して、私は、ことあるごとに、懲戒事例・注意勧告事例に出てきている、公的見解・準公的見解に従って、業務態勢を改めるよう、要求しました。そう要求した動機は、正義感というもの以上に、私の資格を守るためでした。ときに私は、「そういった業務態勢をとるなら、司法書士会に通報する」旨、Dの幹部たちに告げたこともありました。
 公的見解・準公的見解に従え。そういった(形式的な)正論をぶつけ続けているうちに、Dの幹部からは、私に対して、「貴方は辞めたほうがいい」という言葉が出てくるようになりました。それもそのはず、そういった見解に従った業務態勢をとったら、大量受任・大量処理ができなくなり、Dは破綻してしまいます。そのことを、私も、分かってはいました。しかし、私としては、Dの幹部たちからの言葉に、応じる気には、なりませんでした。その理由は、つぎの2点にありました。①正論を主張しているのに、退職勧奨がくることは、おかしい。②私にも生活がある。自主退職したら、退職金が出ないうえに、退職手当も、しばらく出ない。これらの理由から、私は、その後も、Dの幹部たちに、上記意見を、ぶつけ続けました。さらに、私は、彼らに、こうも伝えました。「もし私から辞表を出して欲しいなら、半年分の給与、そして1回分の賞与を払ってください」
 私と、Dの幹部たちとの対立に、決着がついた、そのきっかけは、武富士の倒産でした。武富士の倒産を機に、Dは、債務整理業界での生き残り策として、毎月400人、案件を受任するという、新しい方針を打ち出しました。毎月400人という数は、従前の水準であった毎月200人、その倍にあたります。しかも、それに対して、職員の人数は、増やさない。このように、この方針は、無茶苦茶なものでした。そして、この方針に沿って、無資格者による面談・意思確認を、Dの幹部たちは、段々と実施に移してゆきました。
 その状況のなかで、私は、新たに顧客対応に従事することとなった無資格者が、懲戒・注意勧告の対象になりかねない失敗を犯していることに、気が付きました。その失敗は、こういうものでした。過払い金の金額が140万円を超えている案件、すなわち司法書士が代理できず・顧客の意思に沿った和解しかできない案件につき、彼は、顧客の意思に沿わない和解を勝手に締結していました。そのことについて顧客から苦情がきたにもかかわらず、彼は、「もう和解してしまったので、変更は無理です」と答えていました。その無資格者は、従前から、ミスの多いひとでした。たとえば、地方裁判所での本人訴訟案件につき、司法書士には代理権がないにもかかわらず、送付状に「代理人司法書士D」と表記する、等(註18)。
 こうした失敗の出てくる業務態勢が、だんだん、できあがってきている。そう考えた私は、その勢いに歯止めをかける、または、Dからの退職勧奨を呼ぶために(退職にあたっては、雇い主から退職勧奨を受けたほうが、その後の交渉を有利に進めることができます)、ふたたび、Dに、正論をぶつけることにしました。その具体的な方法としては、その無資格者に、「こうした顧客への対応は、法律違反だ、もう顧客に対応するな」と、怒鳴り込み・ねじ込んだのでした。
 2度ほど、その無資格者に、そういった話を、怒鳴り込み・ねじ込んだところ、まず、その無資格者が顧客に対応することを、止めることができました。その後、Dの幹部が、私に退職金を提示して、辞職を促してきました。そこで私は、退職金を受け取って、辞職しました。
 以上、Dそして私の汚さ・醜さでした。
 Dにおいては、そもそも、債務整理業務に乗り出した、その初期に、経営判断につき、誤りがあった。そう私は感じています。その誤りとは、大規模化による、大量受任を決定したことです。その決定によって、みるみるうちに顧客・職員がふくらんでゆきました。その結果、これまで述べてきた状態を、続けることができなくなるまで続けるしかない、そういう悪循環ができあがってしまいました。その悪循環についてくわしくいえば、こういうことです。

ア 現在、大量に抱えた案件を処理しなければならない。
イ そのためには、これまた大量に、職員たちを抱えて、右から左へ、杜撰に違法に業務を処理しなければならない。
ウ その職員たちを養うために、またまた大量に新たな案件を獲得して、その顧客たちからも、法外な報酬をとらなければならない。
ア その大量に受任した案件を処理するために・・・(以下、ア→イ→ウのくりかえし)

 この悪循環においては、ア・イ・ウ、これらのいずれを止めても、それがDの破綻につながります。Dの破綻によって、Dが抱えている顧客・職員たちはもちろん、Dの幹部たちも、路頭に迷うことになります。従って、Dには、この悪循環を続けるよりほかに、方法がないのです。しかし、ほかに方法がないという理由は、Dの大量受任・杜撰処理・違法処理・法外報酬を、そして、それらについてのそもそもの原因となった、初期段階における経営判断の誤りを、正当化できるものではありません。それなのに、自分たちを正当化して清々している、Dの幹部たちに、私は、ゴヤの「気まぐれ」において出てきた、「偽善・欺瞞」を感じます。
 しかし、偽善・欺瞞は、Dの幹部たちに限った話ではありません。ここまでDについて何だかんだと書いてきた、私自身にも、偽善・欺瞞があります。その偽善・欺瞞とは、私自身も、Dに勤めて、その大量受任・杜撰処理・違法処理・法外報酬につき、一翼を担っていたことです。Dの内部において(形式的な)正論を主張していたといっても、それは五十歩百歩というもの。そもそも、Dの大量受任について、私は就職活動におけるDとの面接の段階でも聞いていたのですから、その内部に入らないこと、すなわち、Dに就職しないことが、私にとって、いちばんまっとうな態度だったのです。そして、その次にまっとうな態度は、早期にDから退職することだった。そう私は、いまでは考えています。
 早期に退職することなく、Dで働き続けた結果、私も、そうとう汚く・醜いふるまいをすることになりました。
・ 綱紀委員会への通報を明言して、Dの幹部たちによる違法な経営判断を、自分に都合がいいように、ねじ曲げる。
・ 資格のない職員に対し、怒鳴り込み・ねじ込んで、私の資格に危害を及ぼすおそれのある執務を、止める。
 これら私の振る舞いは、理性による対話とは、かけ離れた、力ずくの行動でした。私は、Dに勤め続けることによって、このような、自分の人生における汚点を、作り続けていたのです。
 それでも私が、Dに就職した動機・勤め続けた動機は、つぎの3点にありました。①それまでに勤めた、登記を主たる業務とした職場において直面してきた、他人・自分の汚さ・醜さに辟易していた。そこで、Dには知人が勤め続けていたので、変人はいないのではないか、すなわち、他人の汚さ・醜さに直面する可能性が少ないのではないかと考えたこと。②登記を主たる業務とした職場が、不況の影響を受けて、仕事が減少。その減少も影響して、2ヶ所つづけて、試用期間だけでの雇止めにあった。そのことから、「登記を主たる業務とした職場に就職することは、しばらくは難しい。この不況がやむまで、債務整理を主たる業務とした職場に勤めたほうがいい」と判断したこと。③さらに、債務整理業務については、登記業務よりは実務経験があったので、そのぶん、新しい職場にも順応しやすいのではないか。そう考えたこと(実際、そのとおりでした)。
 これら、就職の動機・勤続の動機においても、登記業務にかんする私の実力不足が、影響している。そう私は感じます。その実力が、もっと私にあったら、私は、べつな、もっとまっとうな職場に勤めることが、できていたかもしれません。そして、その職場に勤めつづけることができていたかもしれません。さらにいえば、勤めるのではなく、独立開業して、自分が「さしあたり、これがまっとうなのではないか」と思える仕事が、できていたかもしれません。
3 総括
 以上、これまでに私が直面してきた、他人・自分の汚さ・醜さについて、書いてきました。
(1)ゴヤの絵
 こうした汚さ・醜さを振り返るにつけ、私は、ゴヤの描いた絵を、思い出します。
ア 理不尽な言いがかり
 自分が満足・利益を得るために、他人に対して、理不尽な言いがかりをつける。そんなAやCの姿は、ゴヤが「気まぐれ」において描いた、異端審問所による理不尽な投獄・拷問のありようと、重なります(上記第4の2(1)参照)。
 私が、Dの幹部たちや、その下で働いていた無資格者たちに対して突きつけた、(形式的な)正論も、似たようなものでした。それは正論ではあったかもしれないけれども、私は、相手が、それに応じたら破綻してしまうことを、分かっていたのです。
イ 人が人を食う
 人が人を食う。そのことを主題として、ゴヤは「サトウルヌス」を描きました。
 そして、人が人を食っている、その有様は、私の歩んできた人生のなかでも、同じでした。
 Aは、顧客から依頼を受けたにもかかわらず、その事件を放置していました。その放置からくる督促をかわすことによって、Aは、満足を感じていました。Aは、他人を犠牲にして、自分が満足を得ていたのです。
 Dは、顧客から法外な報酬を取っていました。顧客が借金に苦しんでいる状態を利用して、その顧客を食いものにしていたのです。そして、私も、Dの一員でした。
 そして、人が人を食う有様は、依頼者と受任者とのあいだだけではなく、雇い主と労働者とのあいだにも、見出すことができました。
 Cは、部下から身元保証書をとることによって、自分の損失を、部下の両親等による賠償によって、穴埋めすることができるよう、もくろんでいました。
 Dの幹部たちは、職員たち・有資格者たちに負担を転嫁して、自分たちの利益・安全を図っていました。
 そして、私は、CやDに食らいついて、自分の利益・安全を確保しようとしてきました。
ウ 終わりのない争い
 これまでア・イにおいて述べてきた、理不尽な言いがかり、人と人との食いあいによって、そこには争いが生まれていました。そして、その争いによって、お互いが労力・時間を浪費していました。この構図には、ゴヤの描いた「決闘」が、ぴったり当てはまります。人間たちは、争うことに精一杯になっていて、流砂から出るための力を割くことができず、そのまま沈んでいっていました。
エ 歴史は繰り返さず・人これを繰り返す
 以上、ゴヤの描き出した、人間の実存は、私の生きてきた・生きている、時代・社会・人生にも、当てはまるものでした。そして、これからも、私は、そのような人間の実存に、直面してゆくことでしょう。歴史は繰り返さず、人これを繰り返すのです。そのことを覚悟したうえで、私は、本稿において述べてきた考え・決意をもとに、今後の人生を、生きてゆきます。
(2)自尊心
 上記(1)においては、これまで私の見てきたことと、ゴヤの描いたものとの重なりについて、述べました。
 しかし、もちろん、重なっていない部分もあります。ゴヤの描いていないもの、そのうち、私が重要だと考えているもののひとつとして、「自尊心」の問題があります。
 この「自尊心」の問題について、私は、【作家を読む】開高健さんにおいて、こう述べました。「高すぎる自尊心は、ひとりよがりな考え方に、つながります。低すぎる自尊心は、破廉恥なふるまいに、つながります。これらは、ともに、ひとを誤らせるものです」
 こう述べた私の脳裏には、上記2において紹介した、他人・自分の汚さ・醜さがありました。
 高すぎる自尊心、そこからくる、ひとりよがりな考え方は、A・B・Cに共通した特徴でした。Dの幹部たちも、自分たちを正当化している点においては、同じようなものでした。
 低すぎる自尊心、そこからくる破廉恥なふるまいは、Aにおける性欲の解放に、みることができます。Cが、事実を歪曲して・嘘をついて、清々しているありようにも、私は、自尊心の低さを感じます。彼らは、自分の行いを、恥ずかしいことだと感じていないのです。
 このように、高すぎる自尊心・低すぎる自尊心は、ひとりの人間のなかに、同居することが、ありえます。両者は、表裏一体なのです。そして、これらは、ともに、ひとを誤らせるものです。
 以上、述べてきたことから、私は、これまでの人生からみた実感として、自尊心を、高すぎず・低すぎず、適切な水準に保っておくこと、その大切さを感じています。
(3)今後の課題
 最後に、私が今後、克服するべき課題について述べて、本稿を終えることにします。
 その課題は、「私の実力不足」です。
 これまで述べてきた、私の歩みからも分かるとおり、それぞれの職場におけるトラブルには、私の実力不足が一因としてありました。
 不足している実力は、まず、狭い意味でいえば、登記業務にかんする実力です。その実力がないために、私は、よりマシな職場に就職することもできず、さらには、問題のある職場に勤め続ける羽目に陥っていたのでした。
 登記業務にかんする実力不足によって、私は、いま現在、勤めている職場においても、問題を起こしています。私は、様々な失敗をやらかして、同僚そして顧客に、迷惑をかけているのです。そして、私はいま、登録していない有資格者として働いています。登録していない人間による執務を、Dで働いていたときには、批判していたにもかかわらずです。それなのに、私がいま、登録していない理由は、これもまた私の実力不足にあります。私の実力が不足しているので、所長が私の登録を認めていないのです。
 このように、実力不足が、私が(なるべくまっとうに)働いてゆく・生きてゆく、そのことについての障害になっています。
 そのうえ、私の克服するべき実力不足は、登記業務にかんするものに、とどまりません。登記業務にかんする実力不足を克服したとして、そのことは、いま現在、勤めている職場において、同僚そして顧客に迷惑をかけることがなくなる、ということにしか、つながりません。そのことには、最低限「生きてゆくことができる」という意味しかありません。
 しかし、私は、最低限に生きるどころか、これまでも述べてきたように、「なるべくまっとうに生きてゆきたい」のです。そのために、私が、今後の人生において克服するべき課題、身につけていくべき実力は、まだまだ山積しています。収入の上昇、ひとり暮らし、結婚、独立開業、経営の維持、社会貢献(成年後見)・・・等々。
 眼前にそびえる、克服するべき課題の山。その山について考えるとき、私は、宮崎駿さんの言葉を思い出します。
「少年がひとりで旅立つことはできないんです。昔より脆くなっているから」(CUT2010年9月号22頁)
「だから「影なんか付けなくていい!」と「ポニョ」の時は言ってましたけど、「今度は影付きで行くぞ!」と思ってるんです(笑)。「とことん入れる! みんなそこで泣け!」と。こんなぐうたらに生きてたらダメだと。みんなやってるつもりなんでしょうけど、僕が見てるとぐうたらにやってるとしか思えない。「鼻血が出るぐらいやれ!」ってね」(CUT2011年9月号23頁)
 こういった宮崎さんの言葉に触れて、私は、自分が「脆い少年」のまま、長い長い年月を過ごしてきたことを、自覚します。そして、鼻血が出るほど働く必要も、感じます。
 それというのも、私が今後、歩んでいく人生において、課題が山積しているうえに、これから世の中がどうなっていくのか、見当がつかないからです。大規模な問題から、目の前の小さな問題に至るまで、楽観のできない状態が続いています。世界規模での不況。日本における少子高齢化。震災・原発。経済の不振。司法書士業界の不振。いま自分が勤めている事務所の不安定(こんなことを書いたら上司に怒られそうですね)。こうした状態が続くどころか、これから、もっと世の中がひどくなってゆく可能性が、十分にあります。
 そんな不安な時期に、働きづめに働いて、生き抜く。そうした人生を送ったひとが、ゴヤでした。彼の人生に、私も倣います。
 そのように、鼻血が出るまで働く・働きづめに働くことについて、私のなかで障害になっていたものが、本稿冒頭において述べた、問題意識でした。その問題意識を換言すると、こういうことでした。
「自分の生き方について、なにも考えずに、働きづめに働いていくだけでは、いま以上に、自分の人格が歪んでしまうのではないか」
 そのことが、私は不安だったのです。なぜなら、これまで私が述べてきたA・B・Cたちが(Dの幹部たちは除きます)、一生懸命に働いて・学んで、実力を身に付けてきたのだろうこと、そのことも、私は感じていたからです。一生懸命に働いて・学ぶだけでは、A・B・Cたちの陥った罠に、私も、はまりこんでしまうおそれがある。一生懸命に働き・学び、なおかつ、A・B・Cたちのようにならないためには、私は、どういう考え方をもって、生きてゆけばいいのか。その問いについて、私は、これまで半年にわたって、考え続けてきたのでした。
 その問いにたいする、いったんの結論を出すために、考えるヒントとなったものが、開高健さんの作品群、映画「コクリコ坂から」、そして堀田善衛さんの『ゴヤ』でした。それらの作品から得たヒントをもとに、自分で考えたことを、私は、自分のための覚え書きとして、こうして書き留めてきました。
 そういった思索を通して、いったんの結論が出たいま、つぎに私が全力を尽くすべきことは、自分の抱えている課題を克服するべく、働きづめに働くことです。私は、ここで筆を置いて、これまでの3記事において書いてきた考え・決意を、胸に抱きながら、なるべくまっとうに生きてゆくために、働きづめに働いてゆくこととします。

 以上

□ 註
1 堀田さんの『ゴヤ』にも、宮崎さんに影響を与えたのかもしれない記述が、いくつか出てきます。そのうち主要なものは、後述します。ここでは、『ゴヤ』において、スペインの王室が、矮人や白痴を、道化として飼っていた旨の記述があることを、指摘しておきます(ゴヤ1/123頁)。そして、宮崎さんのコミック版『風の谷のナウシカ』にも、王室・道化が出てきています。この設定につき、ひょっとしたら、宮崎さんは、堀田さんの『ゴヤ』から、発想を得たのかもしれません。
2 さらに、ゴヤも、若いころ、時の権力を握っていたイエズス会が、一夜にしてスペインから追放になった事件に、遭遇しています。堀田さんも、若いころ、二・二六事件に遭遇しています。このことから、堀田さんは、ゴヤの人生に、自分の人生と似通ったものを感じていたのではないでしょうか。堀田さんは、ゴヤの上記経験につき、こう書いています(ゴヤ1/180頁)。
「しかしおそらく、21歳になる青年ゴヤをも含む一般のスペイン人民にとって、もっとも衝撃的であったのは、官憲による聖職者の逮捕と護送の光景であったであろう。
(中略)
 昨日までの絶対的権威が、今日は銃剣で追われて行く。一度それを見た人は、決して忘れないであろう」
3 ゴヤと、バイユーの妹ホセーファは、幼なじみ。彼らの結婚は、恋愛結婚ではあったようです。ゴヤは、女遊びを好み、そこから持ってきた病気を彼女にうつし、さらに20人も子を生ませ、彼女に大変な負担をかけました。子どもは、ひとりしか成人しませんでした。
 もうひとつ、ひどい話があります。ゴヤの描いた彼女の肖像画として、堀田さんが『ゴヤ』で紹介していた絵。その絵も、その後、研究が進んで、別な女性の肖像ということになっています。結局、ゴヤが描いたホセーファの肖像として現存しているものは、60歳、老い・疲れはてた姿のみ。
 堀田さんも、ホセーファとの関係については、ゴヤを「罰当たり」と表現しています。
4 なお、ゴヤがフロリダブランカ伯爵の肖像画を描くに至った経緯については、はっきりしていません。どうやら、彼を伯爵に紹介した人物は、建築家ベントゥーラ・ロドリゲスだったようです。ロドリゲスは、彼にとってはじめての仕事だったサラゴーサの教会、その建物を建築した人物でした。
5 蛇足。宮崎駿さんも、自分の描きたいものを、デッサンとして、描きためていたそうです。そのデッサンのなかから、トトロが生まれた。そういったことを、宮崎さんは話しています(『風の帰る場所』294頁)。
6 なお書き。友人・知己を利用して、何かを成そうとする。その発想では、うまくいかないだろう。そういったことも、私は、感じています。友人・知己は、あくまでも、自分が、仕事に、誠実に取り組んで、ひとの役に立つことによって、できてくるもの。まず誠実な仕事が先にあって、友人・知己は、後からくるもの。そういうものだと私は思います。私が以前に読んだ、高田朝子『人脈のできる人』にも、同じ趣旨のことが書いてありました。
7 精神が落ち込んで、なにもできなくなってしまう。こうした状態のことを、作家・開高健さんは「滅形」と呼んでいます。開高さんにならって、本稿でも、こうした状態のことを「滅形」と呼びます。
8 同じようなことを、作家・司馬遼太郎さんも書いています(「ものを見る達人たち」『司馬遼太郎全講演』第4巻/朝日文庫・収録)。宮崎駿さんも書いています。宮崎駿さんの言葉を、ここに引用しておきます(『本へのとびら』岩波新書131頁)。
「この世界をどういうふうに受けとめるんだ、取り込むんだというときに、自分の目で実物を見ずに、かんたんに「もう写真でいいんじゃない」となってます。写真自体も、いくらでも色やコントラストが変えられるから、好き勝手にしているでしょう。ですから、ほんとうに自分の目がどういうふうに感じているのかということに立ちどまらなくなっています」
9 なお、ゴヤは、批判者ではあっても、扇動者ではありませんでした。彼が書いたデッサンのなかに、労働者が怒って鍬を投げ捨て・両手を振り上げて叫んでいるものがあります。その題名は「叫んだって何の役にも立たん」でした。
 現状を認識して、その現状を批判することと、その現状を変えるべく社会のなかで運動することとは、別なことなのです。
 このゴヤのデッサンを見て、私は、宮崎駿さんの言葉を、思い出しました。宮崎さんは、「総理大臣になったら子供のために何をする?」との問いに、「子供のためを考えるなら、政治家には、ならないほうがいい」と答えています(DVD『ジブリの本棚』)。認識者・表現者ではあっても、扇動家・革命家ではない。その考え方において、宮崎さんと、堀田さんの描いたゴヤには、似通ったところがあるようです。
10 リアリズムについては、スペイン絵画において、ゴヤの先人がいました。その先人とは、ベラスケスという画家でした(1660年に死亡)。
 ベラスケスも、宮廷画家でした。ベラスケスは、宮廷にいた道化(矮人・白痴)を、王・王妃・親王などと、まったく変わらぬ客観性において描きました。客観性、それがスペイン絵画における「リアリズム」でした。
 ベラスケスの描いた絵画を、ゴヤは32歳のときに発見。彼は、その後、晩年に至るまで、ベラスケスの絵画から、絵について学びとるものがあったようです。彼は、晩年に、こう語っています(ゴヤ1/400頁・403頁)。「あの前に立って、おれは何も知らん、無智蒙昧だ」「おれには三人の師匠がいた。自然とベラスケスとレンブラントだ」
11 この堀田さんの言葉から、私は、宮崎駿さんの言葉を思い出しました(司馬遼太郎『日本人への遺言』朝日文庫54頁)。その言葉を、ここに引用しておきます。
「日本の現代の住宅街をきちんと描いてみると、大変です。電信柱、看板、交通標識といっぱいあります。そんなものを全部まじめに描いていったら、シュールレアリスムの世界になってしまいます」
 異様な現実のなかに住んでいること、そのことは、ゴヤの生きたスペインでも、私たちの生きている日本でも、同じであるようです。
12 「気まぐれ」58番には、こういうコメントが付いていました(ゴヤ2/426頁)。
「人々のなか(世の中)に生きる人々は、遅かれ早かれ、灌腸をうける(うんざりさせられる、と同義)筈である。それを避けたかったら山奥ででも生きなければならない。しかも山奥へ行けば行ったで、その孤独な生活は、その生活自体のなかにやはり灌腸(うんざりさせられること)をもっていることを見出させられるであろう」
 このコメントにつき、堀田さんは、鴨長明『方丈記』にも、同じような言葉があることに、触れています。
「世にしたがへば、身くるし。したがはねば狂せるに似たり。いづれの所を占めて、いかなるわざをしてか、しばしもこの身を宿し、たまゆらも心を休むべき」
 この長明の言葉と、ゴヤの言葉とを比べて、堀田さんは、その印象を、このように書いています。
「乱世、あるいは時代の激変を迎える歴史的時間というものは、古今東西、人間にまったく同じことばを吐かせるもののようである」
 これら、ゴヤ・長明の言葉、そして堀田さんの言葉に、私も同感です。私は、2011年1月から6月まで、仕事をせずに、勉強と就職活動に明け暮れていました。その生活は、自由で気ままなものではありました。しかし、その後、仕事を再開したとき、私は、職場・社会で働くために必要な地力を、その6ヶ月分、なくしてしまっていたのでした(ひょっとしたら、私には、そんな力は、もとからなかったのかもしれません)。そのことから考えて、どうやら、今後、私が生き抜いていくためには・生計を立ててゆくためには、社会のなかで絶えず働き続けるしかないらしい。そういう思いを、私は、その6ヶ月を経て、抱いていました。この思いから、私は、上記3人のことばに、共感します。  余談。堀田さんは、乱世を生きた人間について、その評伝を書いた作家でした。まずは、長明についての『方丈記私記』。つぎに、『ゴヤ』。これら『方丈記私記』と『ゴヤ』との間に、私は、ある変化を感じます。それは、主人公の生き方についての変化です。長明は、乱世を生きてゆくなかで、世を捨てました。ゴヤは、乱世のなかで、世を捨てず、生き抜きました。この変化は、そのまま、堀田さんのなかでの思いの変化――世を捨てたいと思った・しかし・生き抜いていくことにした――でもあったのではないでしょうか。
13 なお、公開処刑は、ゴヤの生きた時代、スペインでも、あったといいます。当時、スペインでは、祭りの際に、異端審問所から極刑の宣告が下ったひとを、町々をひきまわしたうえで、余興として、公開で処刑していたとのことです。「歴史はくりかえさず、人これをくりかえす」という堀田さんの言葉は、ほんとうに、そのとおりであるようです。この公開処刑につき、堀田さんは、このように書いています(ゴヤ1/113頁)。
「つい300年か400年前には、お祭りだけではなく、ヨーロッパ各地での王の即位式などの機会に、首都の広場に大群衆をあつめて罪人を火刑に処したりしてそのめでたさを祝ったものであった。人間がそういうものであったこと、あることを、われわれはゴヤとともに忘れない方がよいであろう」
14 このことについて、さらに詳しく書きます。そもそも、人間は、生まれてくるとき、自らの意思でもって、人生に・社会に、意味・意義を見出して、誕生してくるのではありません。英語で I was born というように、人間は、主体的にではなく、受け身のかたちで生まれてくるのです。人生に・社会について、何らの意味・意義も見出すことがないままに。すなわち、人間が生まれてくること、そのことは、意味・意義といったものごと、それ以前の話なのです。生まれてくるときに、意味・意義がなかったのですから、その後、生きるにあたっても、意味・意義は、なくてはならないわけではない。そう考えることが、できるのではないでしょうか。
15 この決意について、私に影響を与えたもの。それは、司馬遼太郎さんの文章でした。その文章の題名は、「一杯のコーヒー」でした(『司馬遼太郎が考えたこと』第2巻/新潮文庫・収録)。
16 なお、A以外の同僚たちに出会うことができたことは、良かった。そう私は今でも思っています。
 さらに、この職場で成年後見業務に携わったことは、その後、私の職業人生に良くも悪くも影響しました。良い影響は、「成年後見業務に携わるためには、ほかの業務で収益を確保する必要がある」ということを学ぶことができたことでした。悪い影響は、合格して間もない大事な時期に、登記業務にかんする経験が身に付かず、かえって受験勉強で得た、登記業務にかんする知識すら、抜け落ちてしまったことでした。
 このように、この職場で働いたことによって、自分の目標につき、克服するべき課題をからだで感じることができた反面、その課題を克服するべき努力を後回しにしてしまった。そう私は振り返って考えています。
17 ちなみに、こうしたCとの戦いを通して、経営者との戦いについて、私が学んだこと。それは、つぎのようなことでした。
・ いくら相手のすることが理不尽であっても、こちらは、法律上・倫理上、筋の通った態度をとるべきである。こちらが筋の通った態度をとっているかぎり、経営者は、労働法上、こちらの待遇に手を出すことはできない。筋の通った態度とは、すなわち、仕事に真面目に取り組む態度のこと。仕事に真面目に取り組むことによって、仕事については、同僚・顧客に迷惑をかけることも、その分、少なくなる。
・ 部下が経営者と一対一で戦うことには、相手が指揮権・人事権を握っているので、限界がある。部下が経営者と戦うことになった場合には、つぎの2通り、戦い方がある。①監督官庁など、経営者よりももっと強力な機関を、利用する・味方に付ける。②団結する。
18 こういう投げやりな執務姿勢を、この無資格者がとっていた、その原因。その原因は、本人の話からすると、学生時代、両親が離婚したことにあるようです。その離婚を経験したことから、彼は、宮崎駿さんのいう「安直なニヒリズム」に陥って、腐った。そういう事情があったようです。彼は「どうせ人は死ぬんですよ」などと、よく言っていました。

2011年11月20日 (日)

【映画を読む】コクリコ坂から~宮崎駿さん・宮崎吾朗さん・堀田善衛さん~

第1 はじめに
 本稿は、わたしの、個人的な、おぼえがきです。
 映画『コクリコ坂』からを観て、わたしが考えたこと。そのことを書きます(註1)。その大まかな内容は、下記のとおりです。
1 松崎海・風間俊にみる堀田善衛さんの影響(第2・第3・第4)
 映画『コクリコ坂から』の主人公である、松崎海・風間俊の言動を観ていて、わたしは、作家・堀田善衛さんのことを思い出しました。堀田善衛さんは、宮崎駿さんの尊敬する作家さんです。堀田さんの行動・考えが、宮崎駿さん、そして映画『コクリコ坂から』に、どんなかたちで影響しているのか。そのことを詳しく書きます。
2 残る問題~少年の脆さ~(第5)
 映画『コクリコ坂から』の製作がはじまったころに、宮崎駿さんが、インタビューのなかで、自分の持っている問題意識について、語ったことがありました。その問題意識は、ひとくちにいえば「少年の脆さ」ということでした。その「少年の脆さ」について、映画『コクリコ坂から』には、どういう表現があったのか。そのことを、松崎海・風間俊の言動を引き合いにして、考えてゆきます。
3 わたしの個人的な心情(第6)
 私が、映画『コクリコ坂から』を観て、抱いた心情。その中身について、書きます。そのひとつは、まっすぐに生きることへのあこがれ。もうひとつは、過去・現在への関心の高まり、です。

第2 松崎海
 映画『コクリコ坂から』のヒロインである、海。彼女は、宮崎駿さんがこれまでに描いてきたヒロインたち、彼女らを総合した、結晶のような女性像でした。
1 悲しみに耐えて生きる
 彼女は、幼い頃に父を亡くした悲しみに耐え、毎日、ご飯を作り、下宿コクリコ荘を切り盛りします。
 その姿は、ナウシカ・サンと重なります。ナウシカは、故郷を離れ、戦乱の世を生き抜く女性。サンは、父母に捨てられ、人間を憎みながら、もののけの世界で生き・戦う女性。
 ナウシカ・サンの、悲しみに耐え、まっすぐに生きる姿勢。その姿勢を、海にも感じます。
2 日本で生きる
 そして海は、日本の横浜で生きています。ファンタジーの世界でもなく、もののけの世界でもない。
 これまで、日本を舞台にした、宮崎駿さんの映画において、主人公は、魅力のある、でも非力な少女でした。サツキしかり、千尋しかり。しかし、『コクリコ坂から』の海は、物語冒頭から、すでに、一人前の・等身大の人間として、下宿を切り盛りしています。
3 小括
 宮崎駿さんのなかにある、悲しみを抱えつつも、まっすぐ生きる女性像。その女性像が、日本の、等身大の女性となった姿。すなわち、ナウシカ・サン・サツキ・千尋、彼女らを総合して・結晶化したキャラクター。それが海なのではないでしょうか。

第3 風間俊
 もうひとりの主人公、風間俊。彼の言動が、私が作家・堀田善衛さんを連想した、主なきっかけとなりました。
1 演説「古いものを壊すことは・・・」
 連想のもととなった場面は、彼が、カルチェラタンという建物の存続について、取り壊しに賛成している生徒たちのまえで、演説をぶつ場面です。
 カルチェラタンは、明治の末に建てられた建物。男子生徒たちの、部活動の拠点。老朽化が進んでいる(映画の舞台は1963年)。だから、取り壊して、新たなクラブハウスを建てるという計画が持ち上がっている。その計画に、80%の生徒が賛成している。
 その計画について賛否を問う、討論集会において、俊は、並みいる生徒たちを前に、こう言ってのけます。

古くなったから壊すというなら
君たちの頭こそ打ち砕け!
古いものを壊すことは
過去の記憶を捨てることと同じじゃないのか!?
人が生きて死んでいった記憶を
ないがしろにするということじゃないのか!?
新しいものばかりに飛びついて
歴史を顧みない君たちに未来などあるか!!
少数者の意見を聞こうとしない君たちに
民主主義を語る資格はない!!

 このように、俊は、自分とは反対の立場にある群衆に対し、真ん前に立って、堂々と批判しました。批判の中身は、彼らが、過去の記憶を・歴史を顧みないこと。
2 作家・堀田善衛さん
 こういった俊の姿が、私には、堀田善衛さんと重なって見えました。堀田さんは、俊の演説と同じようなかたちの演説を、実際にぶったことのあるひとでした。そして、俊と同じような考え方を持っているひとでした。
(1)批判演説:ソヴィエトによるチェコ侵攻
 堀田さんは、ソヴィエトという国に対し、公の場で、批判をしたことがあります。1968年、アジア・アフリカ作家会議でのことでした。その1968年という年は、ソヴィエトがチェコに侵攻した年でした。そして、その年のアジア・アフリカ作家会議は、ソヴィエト作家同盟が主催していました。その会議における演説で、堀田さんは、こう言ってのけたのです。
「ある一国が他国で面倒が起こっているからといって、軍隊をもって鎮圧するなどということは、とんでもない話である」
 こう言ってのけたあと、「そのとき私の後ろにいたソヴィエトの議長団の目付きといったらものすごかった」と、のちに堀田さんは語っています(註2)。
 このように、自分とは反対の立場にある人々に対し、真ん前に立って、堂々と批判する。そういった堀田さんの姿は、上記しました俊の姿と、重なります。
(2)歴史意識:過去・現在・未来
 堀田さんは、過去の捉え方・歴史の捉え方について、このようなことを話しています。

 私たちが〝現代〟という時代を見るとき、それを〝過去〟から〝未来〟へとつながっていく過程としてではなく、過去・未来の要素を現在に内包したものとして捉えなおすことが必要であると思われる。(註3)

 古ギリシアでは、過去と現在が(われわれの)前方にあるものであり、従って(われわれが)見ることの出来るものであり、(われわれが)見ることの出来ない未来は、(われわれの)背後にあるものである、と考えられていた、というのである。
 これをもう少し敷衍すれば、われわれはすべて背中から未来へ入って行く、ということになるであろう。すなわち、Back to the Future である。(註4)

 ドストエフスキーが「悪霊」のなかで、
――人は自由を欲することから発して、ついに警察国家を形成するにいたる。
 と書いたことがあったが、これをしも予言として解するとすれば、それはドストエフスキーが、ロシアの歴史と眼前の現在(の現実)を明確に、如何なる偏見にも、また希望にも恐怖にも動かされることなく、眼前の歴史と現実を見て見て見抜いていたことを意味するであろう。かくして、彼は彼の背後に一つの未来像を見出したのであった。(註5)

 こういった堀田さんの考え方を要約すると、こうです。現在は、過去も未来も内包している。そして、過去・現在を見て見て見抜いてこそ、ひとは未来像を見出すことができる。
 こうした考え方は、上記しました俊の演説と、重なります。俊は、こう言っていました。
「古いものを壊すことは過去の記憶を捨てることと同じじゃないのか!?」
「歴史を顧みない君たちに未来などあるか!!」
(3)小括
 以上、みてきたように、堀田さんと俊の言動には、重なるところがあります。ひとつは、反対派を真っ向から批判すること。もうひとつは、過去そして現在から、未来を見出そうとすること。
 こういった重複からみて、俊は、堀田さんの考え方を、体現するキャラクターなのではないか。そう私は想像しています。
3 堀田さんと宮崎駿さん
 わたしが、俊の言動から、堀田さんのことを連想した、その訳。それは、この映画を企画した宮崎駿さんが、従前から、尊敬する作家として、堀田さんの名前を挙げていたことを、知っていたからです。
 宮崎駿さんは、堀田さんについて、つぎのように書いています。
「堀田さんは海原に屹立している巌のような方だった。潮に流されて自分の位置が判らなくなった時、ぼくは何度も堀田さんにたすけられた」(註6)
 加えて、宮崎駿さんは、堀田さんがソヴィエトのチェコ侵攻について、批判演説をぶったことも知っていて、そのことを書いています(註7)。
 宮崎駿さんが、俊の演説場面を脚本に組み込むとき、その脳裏には、尊敬する堀田さんの批判演説が、あったのかもしれません。
4 堀田さんと宮崎吾郎さん
 堀田さんについては、映画『コクリコ坂から』の監督である宮崎吾郎さんも、このようなコメントを残しています。
「現場を歩く、見る、人と話す。それが何かを知ることであり、自分をつくる。上海時代の堀田善衛さんから、僕はそう学んだ」(註8)
 また、宮崎吾郎さんは、スタジオジブリが主催した『堀田善衛展 スタジオジブリが描く乱世』という企画展にも、スタッフとして参加しているとのことです(註9)。
 こういったことからみて、宮崎吾郎さんも、堀田さんからの影響を、多かれ少なかれ、受けている。その影響が、俊の上記演説に、あらわれているのではないか。そう私は想像しました。
5 宮崎駿さんと宮崎吾郎さん
 なお、脚本の段階(宮崎駿さん担当)では、俊の上記演説には、内容として、あたまの2行・うしろの2行にあたる部分しか、入っていませんでした(註10)。中6行、過去の捉え方・歴史の捉え方にかんする部分は、絵コンテの段階(宮崎吾郎さん担当)で入ったようです(註11)。
 宮崎駿さんが、俊に、反対派を真っ向から批判する舞台を用意する。そして、宮崎吾郎さんが、俊の演説に、堀田さんの歴史意識を組み込む。そんなふたりの共同作業によって、俊は、堀田さんの言動を体現するキャラクターとなっていったようです。

第4 告白
1 堀田さんへのラヴコール
 映画『コクリコ坂から』終盤において、海は、俊に、自分の想いを伝えます。
「私が毎日、旗を揚げて、お父さんを呼んでいたから、お父さんが、代わりに風間さんを贈ってくれたんだと思うことにしたの」
 これまでの宮崎アニメにおけるヒロインを、総合して・結晶化したかのようなキャラクター、海。その彼女が、堀田さんの言動を体現するキャラクター、俊に、想いを伝える。それは、宮崎駿さん・宮崎吾郎さんから、堀田善衛さんへの、ラヴコールでもある。そう見て取ることもできるのではないでしょうか(我ながら野暮な分析ですね・・・)。
2 過去・現在から未来へ
 この告白以前、映画序盤にて、海の祖母は、彼女に対し、こう話しています。
「すてきな人が出来て、あなたが旗を揚げなくてすむようになったらいいのにねえ」
 旗を揚げなくなること、そのことは、海にとって、父という過去を断ち切ることでした。しかし、海は、父を・過去を断ち切ることは、しませんでした。彼女は、父(過去)の贈ってくれた俊(現在)に、想いを伝え、ふたりで未来をつむいでゆく。この海の行動は、まさに、過去そして現在から、未来を見出す、堀田さんの考え方そのものです。堀田さんの考え方を、俊だけではなくて、海も、この映画のなかで、体現しているのでした。
 映画の最後、海は、朝陽のなかで旗を揚げます。その旗は、父そして俊の航海の安全を祈るもの。旗を揚げ、朝陽のなかに佇む海の姿は、ほんとうにうつくしい・・・

第5 残る問題~少年の脆さ~
 ここまで、映画『コクリコ坂から』にみる、堀田さんの影響について、書いてきました。
 堀田さんが説く、過去を・歴史を顧みることの大切さ。その大切さを描くことが、もし実際に宮崎駿さんの狙いであったのだとしたら、その狙いは、十分に果たすことができているのではないでしょうか。そう私は感じています。
 しかし、宮崎駿さんにとっては、この映画『コクリコ坂から』をつくり終わっても、まだ解決のできていない問題が、あるようです。その問題について、以下、くわしく書きます。
1 宮崎駿さんのことば
 その問題とは、「少年の脆さ」です。少年の脆さについて、宮崎駿さんは、かつて、こう語っています(映画『借りぐらしのアリエッティ』公開前におけるインタビューから抜粋。註12)。

 やっぱり少年は悲劇的なもんだと僕は思うんです。だから本当の少年に迫っていったら、悲劇的なものをどうやってエンターテインメントにするんだっていう、ものすごい難問に到達せざるを得ないんですよ。

 たとえば今回の映画で翔というあの少年を主人公にできるかって言ったらね、それはもっと曇った映画になるわけですよ。

 だから、少年を病気にする以外はあり得なかったんですよね。

 この次の映画はどういう形になるかわからないけど、今から準備に入ってるやつは、もっと前を見てる少年像を描こうと思ってます。まだどうなるかわかんないけど。でもやっぱり主人公は女の子ですけど。

 ぼく自身は少年を主人公にした映画は作れないだろうって思ってます。しかも、それを昔じゃなくて今を舞台にして作るのは、とてものことで。少年がひとりで旅立つことはできないんです。昔より脆くなっているから。

 自分がなにかをやるときの焦点はひとつなんですよ。悲劇的な少年を主人公にした映画を作れるかっていう。それは、ものすごく困難であることがわかるし、いくら本を読んだって、転がってるもんじゃないんですよ。少年が主人公の物語は、実に惨憺たる話としてでき上がってます。わかるでしょ、それ? 実際そうなんだから。そこから目を逸らすと、(主人公が)派遣社員かなんかになってしまうっていう(笑)

 そして最後はプータローになるっていうね。そういうふうに、この社会はコンクリートされちゃったんだから。自分らしく生きるっていうのはね、貧困へつながるルートとして、すっかりでき上がってますよ。

 ぼくは、少年が主人公のものしか、考えてはいけないと思ってます。

2 俊の脆さ
 以上、引用しました宮崎駿さんのことば、そのなかに出てくる「少年の脆さ」について、映画『コクリコ坂から』の俊を引き合いに出して、考えてみましょう。
 考えてみると、俊は、海にくらべて、脆い人物として描かれています。俊の脆い部分を、以下、挙げてみます。
(1)俊は、海が異母兄妹だと分かったら、海との関係をあきらめようとしました。俊は、海に対して、「これからも、ただの友達だ」と、いちど、はっきりと伝えます。その後、あきらめずに、関係を続ける努力をしたのは、海でした。
(2)取り壊しの決まったカルチェラタン。そのカルチェラタンに理事長を招き、取り壊しを思いとどまってもらいたい。その思いから、俊・海、そして生徒会長の水沼が、理事長と直談判する場面。その理事長が、男子2人に対して抱いた印象。その印象について、宮崎吾朗さんは、絵コンテに、このように書いています(註13)。

 男子2人にあんまり感心していない。「ここまで来るぐらいだから、もう少し面白い奴だと思ったが・・・」という感じ

 結局、理事長を動かしたのは、海のことばでした。
(3)理事長との直談判の後、夜の山下公園を、ふたりで歩く、俊と海。このとき、進路のことが、話題にのぼります。俊は、家が貧乏だから、国立ねらいなのだといいます。これに対し、海は、お医者さんになりたいと思っているといいます。海は、将来、就く職業のことまで考えている。しかし、俊は、大学に行くことまでしか考えていない。こういった俊の詰めの甘さも、脆さと言えるかもしれません(すこしコジツケでしょうか)。
(4)先にも触れた、告白の場面。相手に対して、まっすぐに想いを伝えたのは、海からでした。
 以上、俊の脆い部分を挙げてきました。こういった、俊の、そして少年の、脆い部分を、映画『コクリコ坂から』は、克服していません。映画『コクリコ坂から』の中心人物は、上記した点からも分かるとおり、あきらめずに・まっすぐに進む女性、海なのです(註14)。
3 宮崎駿さんの次回作
 少年の脆さ。その脆さを克服して、少年を主人公とした映画を、つくることができるのか。そういった問題について、宮崎駿さんは、次回作において、ひとつの答えを出そうとしているようです。宮崎駿さんは、次回作の主人公が男性であることを、映画『コクリコ坂から』後のインタビューにおいて、話しています(註15)。宮崎駿さんの次回作に、注目です。

第6 おわりに
 おわりに、映画『コクリコ坂から』について、わたしが抱いている、個人的な心情を、書きとめておきます。
 いま、この時期に、この映画を観ることができて、よかった。
 わたしは、そう思っています。
(1)まっすぐに生きること
 いま現在、わたしは、社会人になってから、数年を経た時期にあります。その数年間に、ひとの汚さ・自分の汚さを、さまざまに思い知りました。その汚さに、私は幻滅を感じていました。この汚い社会のなかで・汚い自分は、どうやって生きていったものか・・・。そんなことを、私は悶々と考えていました。
 しかし、この映画で宮崎駿さん・宮崎吾朗さんが描いた、まっすぐに生きる少年少女たちの姿に、私は、あこがれを感じました。まっすぐ生きることを、私も、やっぱり、あきらめたくない。そういった思いを、私は、この映画で、あらためて確認することができました。
(2)過去・現在から未来へ
 過去・現在を見つめることの大切さ。そのことにも、私は、映画『コクリコ坂から』を通して、気がつきました。
 いま、社会がどうなっているのか。そのなかで、自分は、未来に向けて、どう生きていったらいいのか。そういったことを考えるためのヒントは、現在だけではなく、過去のなかにも眠っている。そう私は考えるようになりました。
 そういった思いから、私は、過去に生きて・死んでいったひとたちが残してくれた記憶に対して、以前よりも、もっと深く興味を持つようになりました。先般、作家・開高健さんの作品を読み込んで記事を書いたのも、開高さんが生きて・死んでいった記憶を、追体験するためでした。ひどい社会のなかで・自分にも幻滅しながら生きた開高さんの人生を、追体験する。そのことによって、私自身の人生について考えるヒントをつかむことができたら・・・。そう私は考えたのでした(註16)。
(3)他の声・信号・シグナル
 自分にとって大切な作品に出会ったとき、私は、いつも、ある文章を思い出します。その文章は、作曲家・武満徹さんの文章です(註17)。

 異なった声が限りなく谺しあう世界に、ひとは、それぞれに唯一の声を聞こうとつとめる。その声とは、たぶん、私たちの自己の内側でかすかに振動しつづけている、あるなにかを呼びさまそうとするシグナル(信号)であろう。いまだ形を成さない内心の声は、他の声(信号)にたすけられることで、まぎれもない自己の声となるのである。

 映画『コクリコ坂から』は、私にとって、武満さんのいう「他の声(信号)」でした。その声にたすけられて、私の声として、浮かび上がってきたもの。それが、上記(1)及び(2)に書いた考えでした。
 映画『コクリコ坂から』は、「他の声(信号)」として私に語りかけてきた、自分にとって大切な作品として、私のなかに残ってゆくことでしょう。

第7 余談
 余談として、映画『コクリコ坂から』を観て、私が気づいたことのうち、本稿における本筋とは関係のなかったことを、書きとめておきます。
1 下ノ畑ニ居リマス~宮沢賢治~
 カルチェラタンのなか、現代詩研究会の部室。その黒板には、こういったことばが書いてありました。
「下ノ畑ニ居リマス」
 このことばは、宮沢賢治さんのものです。宮沢賢治さんのことも、宮崎駿さんは、尊敬しているようです。宮崎駿さんのことばのなかに、こういうものがあります。
「宮沢賢治はやっぱり偉い人ですよ! とんでもない人だと思いますよ」(註18)
「花巻に家が残ってるでしょう? あそこに〝下の畑にいます〟ってね、誰かがもちろん復元して書いたんですけど(笑)。あれ見ただけで、私なんかはもう駄目ですね(笑)」(註19)
「この人の作品はすべてたからものです」(註20)
2 トリスコーナー~開高健さん~
 東京・新橋。俊・海、そして生徒会長の風間が路地裏を通り抜けていく場面。その場面に、ちいさな看板がかかっていました。その看板には、こう書いてありました。
「トリスコーナー」
 トリスとは、サントリーの商品であるウイスキーの名前です。
 トリスの流行をつくりだしたひと、それが開高健さんでした(註21)。
 開高健さんの活躍した時代と、映画『コクリコ坂から』の舞台となっている時代は、同じ1960年代だったのです。
 なお、開高健さんは、映画『コクリコ坂から』の舞台である1963年の翌年から、戦地ベトナムへ赴きます。そこで開高さんの見た悲惨については、以前、べつな記事において、書きました(註22)。
 映画『コクリコ坂から』の年代は、日本においては、まばゆい・さわやかな物語の舞台となる時代でした。しかし、同じ年代のベトナムには、人間の陰惨で醜いすがたがあった・・・。そのことも、忘れるべきではないでしょう。

□ 註
1 なお、本稿は、「この映画が、どんなにすてきな映画なのか」ということを、力説するような文章ではありません。そういったことは、わざわざ私なんぞが書かなくても、映画そのものを観れば分かります。
2 堀田善衛『めぐりあいし人びと』集英社文庫/ほ1-16/集英社/1999.9/73頁。
http://books.shueisha.co.jp/CGI/search/syousai_put.cgi?isbn_cd=4-08-747102-0&mode=1
3 堀田善衛『時代と人間』徳間書店/2004.2/2頁
http://www.tokuma.jp/book/bungei/1176093861875
4 堀田善衛「未来からの挨拶」『天上大風』ちくま学芸文庫/ホ-3-4 /筑摩書房/2009.12/273頁
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480092649/
5 堀田善衛「未来からの挨拶」『天上大風』ちくま学芸文庫/ホ-3-4 /筑摩書房/2009.12/275頁
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480092649/
6 宮崎駿「堀田善衛 三作品の復刊によせて」『折り返し点』岩波書店/2008.7/367頁
http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/02/1/0223940.html
7 宮崎駿「堀田さんの声が聞こえる」『出発点』徳間書店/1996.7/293頁
http://www.tokuma.jp/book/tokumabooks/1176093940061
 この文章は、前掲註2の書籍について、宮崎駿さんが書いて寄せたものです。なお、前掲註2の書籍には、「カルチエ・ラタン」という言葉も出てきます。カルチェラタンとは、そもそも、パリ五月革命の舞台となった、学生街の名称なのだそうです(同書131頁)。こういった言葉の符合からも、宮崎駿さんに対する、そして映画『コクリコ坂から』に対する、堀田さんからの影響を――とくに前掲註2『めぐりあいし人々』という本からの影響を――私は感じます。
8 堀田善衛『上海にて』集英社文庫/ほ1-21/集英社/2008.10/帯
http://books.shueisha.co.jp/CGI/search/syousai_put.cgi?isbn_cd=978-4-08-746364-4
9 ロマンアルバム『コクリコ坂から』徳間書店/2011.9/45頁
http://www.tokuma.jp/magazine/mook/30b330af30ea30b35742304b3089
10 宮崎駿ほか『脚本 コクリコ坂から』角川書店/2011.6/61頁
http://www.kadokawa.co.jp/comic/bk_detail.php?pcd=201103000286
11 スタジオジブリ絵コンテ全集18『コクリコ坂から』徳間書店/2011.7/158頁
http://www.tokuma.jp/book/tokumabooks/30b930bf30aa30ea7d7530b330f330c6516896c618-30b330af30ea30b35742304b3089
12 雑誌『CUT』2010年9月号/ロッキング・オン/2010.8/20~26頁
http://ro69.jp/product/magazine/detail/39188
13 スタジオジブリ絵コンテ全集18『コクリコ坂から』徳間書店/2011.7/315頁
http://www.tokuma.jp/book/tokumabooks/30b930bf30aa30ea7d7530b330f330c6516896c618-30b330af30ea30b35742304b3089
14 さらにいえば、映画『コクリコ坂から』においては、少年が脆いだけでなく、さらに、父親が存在していません。海の父――もっとも頼もしく・好ましい青年として登場する男性は、物語以前、海が子供であった頃に、死んでしまっています。彼は、思い出のなかにのみ、登場してくるのです。
 こうしたことから考えると、宮崎駿さんの問題意識は、「少年の脆さ」のみならず、「(立派な)青年の不在」というところにまで、及んでいるのではないでしょうか。
 なお、映画『コクリコ坂から』には、円熟した男性として、徳丸という人物が登場します。彼は、海・俊が通う学園の理事長です。彼は、海・俊たちが、カルチェラタンで、つむいでいる文化、その文化の真摯さ・美しさに、感じ入ります。そして、カルチェラタンの取り壊しを思いとどまり、別な場所にクラブハウスを建てることにします。
 取り壊し計画をひっくりかえして、文化を守ろうとする、徳丸。彼の決断は、後先を考えず・打算をこえています。そういった行動をとる彼には、モデルとなった人物が、いるようです。その人物とは、徳間書店を創立した、徳間康快さん。彼は、スタジオジブリの初代社長でもあります(前掲註9『コクリコ坂から』52頁)。その徳間康快さんについて、宮崎駿さんは、こう語っています(後掲註18『風の帰る場所』295頁)。

 『ラピュタ』の興行成績が思わしくなくて、その次どうするかっていうことになったときに、僕はどうしても『トトロ』をやりたいって言い張ったんですけどね。でも普通なら通らない話ですよね。東宝にしても東映にしても、配給元が配給しないですよ。(中略)『トトロ』の場合、どうなるのかなんて全然見当もつかなかったです。ただ、新潮社がたまたま漫画のほうに関心を持っていて、『漫画に興味があるんなら、いっそのこと映画をやったら』って高畑勲が『火垂るの墓』をやりたがっていたので、僕の担当だった男が提案してくれたんですね。そんなやこんなやで、新潮社が徳間書店のほうに一緒にやらないかみたいな話になって、徳間社長が『なにがなんでもやろう』って言ってくれたんですけどね(笑)。でも、あのとき、どう計算しても冷静に判断して、両方とも五千万円ずつ最終的に赤字になるっていう結論が出てたらしいんですよね。それで東宝は配給しないっつったんだけど、徳間社長が『やれ!』っつって、もし配給しないんだったら、徳間書店が製作協力で参画していた『敦煌』を配給させないって言ったらしいっていう話を聞きましたけどね。めちゃくちゃですよ。僕ね、徳間社長はどんな中身だか知らなかったと思うんですよね。だから、やっぱり本当に徳間社長と出会ったっていうのは、自分たちにとってものすごく大きな道が開ける理由になったですね。

 このように、徳間康快さんも、後先を考えず・打算をこえた行動をとるひとだったようです。
 その徳間康快さんをモデルとした、徳丸という人物。彼にみる、円熟した男性の好もしさ。そういった好もしい熟年男性が、映画『コクリコ坂から』においては、上記しました少年の脆さ・青年の不在を飛びこえて、突然、登場してきます。
 好もしい熟年の男性像。そのイメージを、宮崎駿さんは、徳丸というかたちで、すでに持っている。しかし、そのイメージと、少年像・青年像との間には、橋が架かっていない。そこに、どうやって橋を架けるのか。どうやったら、少年・青年は、好もしい熟年になることができるのか。そういった問題も、宮崎駿さんが抱いている上記問題意識から、派生してくるのではないでしょうか。
15 雑誌『CUT』2011年9月号/ロッキング・オン/2011.8/19頁
http://ro69.jp/magazine/detail/56388
16 【作家を読む】開高健さん~終戦まもない荒野からベトナム戦争へ~
http://mizuumikujira.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/post-d4be.html
17 武満徹「暗い河の流れに」『武満徹 エッセイ選』ちくま学芸文庫/タ-26-2/筑摩書房/2008.9/280頁
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480091727/
18 宮崎駿『風の帰る場所』ロッキング・オン/2002.7/23頁
http://ro69.jp/product/book/detail/25732
19 宮崎駿『風の帰る場所』ロッキング・オン/2002.7/27頁
http://ro69.jp/product/book/detail/25732
20 宮崎駿『本へのとびら』岩波新書/新赤版1332/岩波書店/2011.10/30頁
http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/43/5/4313320.html
21 開高健『二重壁・なまけもの』講談社文芸文庫/かR1/講談社/2004.12/270頁
http://www.bookclub.kodansha.co.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=198389X
22 【作家を読む】開高健さん~終戦まもない荒野からベトナム戦争へ~
http://mizuumikujira.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/post-d4be.html

 以上

2011年9月25日 (日)

【作家を読む】開高健さん~終戦まもない荒野からベトナム戦争へ~

□ 参考文献
1 開高健『二重壁・なまけもの』講談社文芸文庫/2004.12
http://www.bookclub.kodansha.co.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=198389X
2 開高健『ベトナム戦記』朝日文庫/1990.10
http://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=3011
3 開高健『輝ける闇』新潮文庫/1982.10/改版2010.7
http://www.shinchosha.co.jp/book/112809/
4 開高健『夏の闇』新潮文庫/1983.5/改版2010.7
http://www.shinchosha.co.jp/book/112810/

※ 本稿は、わたしの個人的な、おぼえがきです。ほかのひとには、内容が、よく分からないかもしれません。

第1 問題意識
 大学を卒業して、数年。その間、わたしは、社会人として働いてきました。そのなかで、汚い真似をする人間たちに、何人か、会ってきました。わたし自身も、汚い真似をしてきました(註1)。
 そういった経験を通して、20代の折り返し点を過ぎた現在、わたしが抱いた問題意識。それは、つぎのようなものでした。
「これから年齢を重ねていく先で、汚い人間に仲間入りをしないためには、どういうふうに生きてゆけばよいのだろう? ひるがえっていえば、まっとうに生きてゆくためには、どうしたらよいのだろう?」
 この問題に対する答えは、じつは、分かっています。
「たとえ辛いことがあっても、世の中に目を向けながら、自分なりに目標を立てて、毎日、コツコツ、誠実に働き・学んでいく。そういった毎日を、積み重ねてゆく」
 こういったことが大事であることは、大学を卒業するとき、すでに、分かっていました。しかし、実際に社会へ出て、他人の・自分の汚さに直面したとき、わたしは若干、幻滅を感じました。その幻滅によって、上に述べたように毎日を暮らしてゆく意欲が、若干、おとろえました。だから、この幻滅をふまえて、上記した問題意識に対する自分の考えを、もっと補強しておく必要がある・・・
 そんなことを念頭において、いろいろ本を読んでいたら、開高健さんという作家さんが、同じようなことを考えていたことが分かりました。そこで、そのひとの書いた作品を、いくつか、まとめて、読んでみました。読みながら考えた結果を、文章にしたものが、本稿です。

開高健さんのプロフィール(文献1カバー裏から抜粋)

 開高健(1930・12・30~1989・12・9) 大阪生まれ。大阪市立大学卒業。父の死により様々なアルバイトで一家の生活を支え、1954年、寿屋(現サントリー)宣伝部に入り、名コピーを送り出すとともに「洋酒天国」等を編集。57年、「裸の王様」で芥川賞受賞。64年、海外特派員としてヴェトナム戦争の最前線に立つ。(中略)代表作に『ベトナム戦記』『輝ける闇』『オーパ!』など。

第2 初期の作品「なまけもの」(1958年3月発表)
1 人と作品
 開高健さんは、13歳のころ(1943年)に、父親を亡くしました。その後、開高さんは、終戦まもない荒野のなかで、いろいろなアルバイトを転々としながら、家族を支えました。そのときの経験が、この作品に、色濃く投影しています。
 この作品の舞台は、終戦まもない荒野。主人公は、いろいろなアルバイトを転々とする、学生。この主人公に、当時の開高さんの姿が、重なって見えます。
2 内容
 世の中の貧しさ。じぶんの貧しさ。その日の食事にも事を欠くありさま。田畑のゴミ溜めから腐ったキャベツを拾ってきて食べようとするけれども、腐っていて食べることができない。やっとのことでありついた食事は、血のにじんでいる動物の臓物。いろいろなアルバイトを転々とする毎日。そして、保守党候補者の選挙活動を手伝うアルバイトに。当時は、学生たちが、共産主義に希望・期待を抱いていた時代。それなのに、主人公たち学生は、生活のために、自分たちの主義・主張とは正反対の保守党候補者の選挙活動を手伝うことに。しかも、その候補者は、ずる賢い選挙屋にそそのかされて立候補しただけの金持ち。俗物。その候補者が、実のあがらない選挙活動に、お金を湯水のごとく使う。そのなかで、選挙屋が、私腹を太らせてゆく。候補者は、あえなく落選。そして選挙屋は、学生たちを更に利用しようとして追ってくる。選挙屋から逃げながら、主人公は、こう感じる。「むつかしい、まったく生きることはむつかしい」
3 コメント
 この作品は、終戦まもない荒野における、ひとびとの汚辱にみちた生活を、描写しています。あくまでも、描写するだけです。その描写をふまえて、
「そのなかで、主人公が、どうやって生きていくのか」
 という問題については、なんの結論も出ていません。この作品を書いた段階では、開高さん自身、結論を出すまでには、至っていなかったようです。

第3 ベトナム戦争へ――『ベトナム戦記』(1965年3月)/『輝ける闇』(1968年4月)
1 人と作品
 1964年11月。開高さんは、ベトナム戦争さなかのベトナムへ、朝日新聞社の臨時海外特派員として、取材に赴きます。
 開高さんには、現地における悲惨な光景と、終戦まもない荒野の光景とが、重なって見えたようです。光景の重複。こういったことから考えると、開高さんは、まるで、終戦まもない荒野を、あらためて自分の目で見るために、現地へ赴いたかのようです。
 そして、1965年2月。開高さんは、最前線で接近戦に遭遇。開高さんの同行した部隊は、200人のうち、開高さんも含め17人しか、生き残りませんでした。
 こうした取材のなかで見聞・体験したことを、短期間で一気にまとめあげたルポが、『ベトナム戦記』です。『ベトナム戦記』において書いた内容を、その後、開高さんが、更に深め、小説化した作品。それが、『輝ける闇』です。
2 内容総合
 ベトナムには、豊かな水田がある。だから、農民も豊かなはず。しかし、農民たちは窮乏している。この窮乏のウラには、政府による搾取を感じる。
 農民たちへの救援物資も、現地へ近づくにつれて、少なくなる。ベトナムには「ネズミ」が多いらしい。
 戦死した兵士に対する弔慰金は、上官が着服する。
 政府軍(南側)に対する、「民族解放戦線」と名乗る軍隊(北側)。「民族解放戦線」は、俗に「ベトコン」と呼ばれている。
 ベトコンを、政府軍が砲撃。その砲撃の巻き添えをくった農民たちは、かえってベトコンに走る。つまり、砲撃すればするほど、敵が増える。そういった悪循環が、現地には、ある。
 この悪循環を止め、戦争に終止符を打つには、どうしたらいいのか。そのためのちから、統一力を持っている集団は、仏教徒たち、そして、コミュニストたち。両者が手を組めば・・・そう開高さんは考える。しかし、仏教徒たちは、決してコミュニストたちと手を組もうとはしない。
 そして、コミュニストたちにも、問題がある。彼らが、北側において、まっとうな政府を樹立しているかといえば、そうではない。北側でも、農民たちが蜂起。その農民たちを、人民軍が弾圧した。人民軍が、人民を弾圧するための武器として、使われたのだった。
 ベトナムの知識人たちは、こういった現状に、幻滅。彼らは、現状を理解するだけにとどまり、行動しない。三文小説を書いたり、ストリップを見たりしている。
 ベトナムの民衆たちは、ベトコン少年の公開処刑へ、見物のために集まる。少年は貧しい人々のために死ぬはずだった。しかし、その人々は、無料の野外劇を見物するつもりで、そこに集まっていた。
 少年は、そのまま、開高さんの目前で銃殺。そういった銃殺を初めて見たとき、開高さんは、はげしい衝撃を受ける。その銃殺を「絶対の悪だ」と感じる。しかし、その後、2回目に銃殺刑を見たときには、なにも感じなかった。慣れてしまったのだ・・・
 開高さんも、こういった現状に、そして自分自身に、幻滅を感じる。「滅形」をおぼえる。「滅形」とは、じぶんのかたちがなくなること。なにも、考えたり・感じたりしなくなること。無気力になること。
 そんななか、開高さんが、さいごに選んだ行動。それは、「見に行くこと」だった。開高さんは、最前線へ、戦争の現実を、見に行く。そして、戦闘に遭遇。その戦闘は、200人のうち、17人しか生き残らなかった敗戦だった。
 まわりの人々が次々と死に・逃げてゆくなか、開高さんを支えていたもの。それは「自尊心」だった。しかし、その自尊心すらも打ち砕かれて、開高さんは、泣きながら逃げのびてゆく・・・
3 コメント
(1)見ること
 戦争の下劣さ・不毛さ。そういったものを感じて、幻滅した開高さん。それでも、開高さんは、「見ること」を選びました。汚いもの・汚いひとから目をそむけることなく、見る。
 とても、まっとうな態度ですね。わたしは、そう感じました。わたしたちが、汚いもの・汚いひと(自分自身も含む)に直面したときにも、開高さんのように、目をそむけずに、それを見てゆく。そういった態度をとることが、大事なのではないでしょうか。
(2)自尊心
 戦闘に遭遇して、そこらじゅうに銃弾が飛び交うなか、開高さんを支えていたもの。それは「自尊心」だったといいます。
 自尊心。だいじなことばです。
 たしかに、自分を支えるものは自尊心です。しかし、自分が誤る原因となるものも、自尊心ではないでしょうか。
 わたしが、これまで見てきた、自分の失敗・他人の失敗。それらの原因をつきつめてみたら、「自尊心」ということばが、カギとなっていることに、気がつきました。
 高すぎる自尊心は、ひとりよがりな考え方に、つながります。低すぎる自尊心は、破廉恥なふるまいに、つながります。これらは、ともに、ひとを誤らせるものです。
 自尊心を、高すぎず・低すぎず、適切な水準に、保っておくこと。そういったことが、大事なのではないでしょうか。
(3)くりかえす内省
 開高さんは、『ベトナム戦記』『輝ける闇』それぞれの要所要所において、内省をくりかえしています。いったん抱いた自分の考えについて、それがほんとうにまっとうな考えなのか、たえまなく、内省しています。
 そういった態度から、わたしが感じたこと。それは、こういうことでした。
「まっとうに生きることとは、なにがまっとうなことなのか、そのことを考えつづけることなのではないか」
 まっとうな生き方とは、どのような生き方なのか。そういった問いに、ひとつの決まった答えがあるはずもありません。むしろ、「これでいいのだ」と答えを決めてしまったとたんに、その生き方は、まっとうなものではなくなるかもしれない。盲信、ということばがありますね。
 ならば、なにがまっとうな生き方なのか・自分の生き方はまっとうなのか、たえまなく内省をつづけることこそが、大切なのではないでしょうか。
 そして、そのように考えつづけるために、上記(1)現実を見ること、そして、上記(2)自尊心を高すぎず低すぎず保っておくこと、そういったことが大切なのではないでしょうか。
 さらにいえば、ひとりで考えるばかりではなく、他人の考えを参照することも、大事なのでしょう。『ベトナム戦記』『輝ける闇』において、開高さんは、いろいろな立場にあり・いろいろな考えを持つ人々と、対話しています。

第4 放浪・・・そして再びベトナムへ――『夏の闇』(1972年3月)
1 人と作品
 開高さんは、1967年に『輝ける闇』を書き上げ、翌年、パリへ旅します。
 同年、パリから東西ドイツへ足をのばし、さいごには再びベトナムへ。
 『夏の闇』という作品に登場する主人公。かれも、同じ経路をたどります。
2 内容
 ベトナム戦争において、自尊心すらも打ち砕かれた主人公。かれは、パリにて、滅形の日々をおくる。滅形した意識のなかにたちのぼってくるものは、終戦まもない荒野の記憶。
 そんななか、主人公は、10年前に別れた女性と再会。女性の暮らすドイツで同棲をはじめる。
 女性自身も痛みを抱えているのに、彼女は主人公を受け入れ、食欲・性欲を満足させ、力づけ、ベトナムへ再び出発するきっかけを与え、別れてくれる。
 主人公は、再出発を決意したとき、こう語ります。
「非当事者のくせに当事者であるかのような身ぶりをすることはできない」
「当事者と非当事者のへだたりのすごさというものをつくづくさとらされた」
「壁の上にいる人間でなければつかめない現実というものもあるはずじゃないか」
3 コメント
(1)再び「見ること」へ
 開高さんは、自尊心を打ち砕かれても、再び「見ること」を選びました。そのときに出てきた言葉が、前項において引用した言葉です。これらの言葉と同じような言葉が、『輝ける闇』終盤においても、出てきています(註2)。そういったことから考えると、『夏の闇』という作品は、開高さんにとって、『ベトナム戦記』『輝ける闇』において自分がつかんだことを、再確認するための作品だったのではないでしょうか。
(2)女性との関係
 この作品を読んでいて、気になったこと。そのうちのひとつが、女性の扱いです。主人公は、まるで女性を踏み台にするかのようなかたちで、ふたたびベトナムへ出発します。
 たしかに、男女の関係には、そういう面があるのかもしれません。女性が、男性を力づける。そして、その男性は、その女性とは一緒に暮らすことができず、最後には別れる(註3)。
 こういった男女の関係を描くこと。そういったことに、開高さんは、『夏の闇』において、力を注いでいるようです。『夏の闇』は、そういう物語でした。

第5 まとめ
 私が冒頭において述べた問題意識。その問題意識について、『ベトナム戦記』『輝ける闇』は、考えるヒントを与えてくれました。それらの作品を理解する前提として、「なまけもの」という作品がありました。
 『夏の闇』は、『輝ける闇』と同じことをくりかえし語っているような作品でした。しかし、読み物としては、おもしろかった。さいご、主人公と女性とが別れる場面を読みおえた後、すてきな余韻がのこりました。

□ 註
1 「汚い真似」とは、どんな真似なのかということは、いちいち詳しくは書きません。詳しく実例を挙げて書いても、書き手も・読み手も、不快になるだけだからです。
2 『輝ける闇』301~302頁
3 かつて読んだ大江健三郎さんの『個人的な体験』(新潮文庫/1981.2)も、おなじような筋書きでした。
http://www.shinchosha.co.jp/book/112610/

□ 関連文献
1 開高健『戦場の博物誌』講談社文芸文庫/2009.6
 開高さんの短編集。この本が収録している、いくつかの短編。それらの短編における題材は、『輝ける闇』と同じものであるとのことです(この本のあとがき233頁)。
http://www.bookclub.kodansha.co.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=2900513
2 松岡完『ベトナム戦争』中公新書/2001.7
 ベトナム戦争にかんする通史。
http://www.chuko.co.jp/shinsho/2001/07/101596.html
3 松岡完『ベトナム症候群』中公新書/2003.7
 ベトナム戦争がアメリカに与えた影響を、分析。
http://www.chuko.co.jp/shinsho/2003/07/101705.html
4 坪井善明『ヴェトナム新時代』岩波新書/2008.8
 ベトナムの現在を紹介。
http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/43/4/4311450.html

2011年5月15日 (日)

【債権法改正】債務不履行おぼえがき

□ 民法(債権関係)の改正に関する中間的な論点整理
http://www.moj.go.jp/shingi1/shingi04900074.html
□ 別表
「proposition_adjust_default.xls」をダウンロード

第1 あらすじ
1 本稿の内容
 本稿では、法務省が発表した「民法(債権関係)の改正に関する中間的な論点整理」(以下、論点整理といいます)のうち、債務不履行にかんする改正提案を、分析します。
 記述の流れとしては、下記のとおりです。
(1)債務不履行にかんして現行民法が規定している内容を、確認する。
(2)上記1の規定内容について、どういった批判があるのか、紹介する。
(3)上記2をふまえて、どういった改正提案が出てきているのか、紹介する。
2 要点
 さいしょに、改正提案の要点を、挙げておきます。その要点は、つぎのとおりです。
「現行民法は、債務不履行のあった場合について、その解決方法を、帰責事由ということばをつかって、整理している。しかし、この整理は、裁判実務の取り扱いに、合致していない。そこで、裁判実務に合致するよう、整理の方法(ことばづかい)を変えよう」

第2 現行民法の規定内容
 債務不履行ということばの意味は、おおざっぱにいえば、つぎのとおりです。
「ひとが、他人に対して負っている義務を、果たさなかったこと」
 このように、債務不履行は、かなり抽象的なことばです。抽象的な分、債務不履行ということばは、いろいろな場面を含むことになります。それらの場面を整理するために、現行民法は、「帰責事由」ということばを、つかっています。そのことばをつかった整理のしかたについて、以下、大ざっぱに紹介します。
1 帰責事由がある場合
 債務不履行があった場合、債権者は、ふたつの権利を取得することになります(註1)。
(1)損害賠償請求権(民法415条)
(2)契約の解除権(民法541条・543条)
 債務者は、自分には帰責事由がなかったことを主張・立証しないかぎり、債権者による、これらの権利の行使を、阻止することができません。
2 帰責事由がない場合
 債務不履行について、債務者に帰責事由がなかった場合には、上記しました損害賠償請求権・解除権は、発生しないことになります。
 そのかわりに、「危険負担」という規定を、現行民法は用意しています。危険負担にかんする規定の内容は、下記のとおりです。
(1)不履行になった債務が、「特定物にかんする権利を移転または設定する債務」だった場合
 その債務についての債権者が、その債務不履行にかんする危険(損失)を、負担することになります(債権者主義。民法534条1項)。

〔事例〕
 土地建物の売買契約において、それらを引き渡す前に、震災により、土地が液状化したうえ、その液状化が原因で建物が全壊してしまった。
 すなわち、土地建物という特定物にかんする所有権を移転する債務が、履行できなくなってしまった。
 このときには、買主(土地建物の引き渡し債務についての債権者)が、その危険を負担することになります。すなわち、買主は、契約のとおり、売主に対して、代金を支払うことになります。買主は、土地建物を引き渡してもらうことができないにもかかわらず、です。

 なお、こういったかたちでの解決に対しては、批判が多いです。そこで、実務においては、当事者は、通常、この規定を排除する特約を、かわしています。
(2)債務が不履行になったことついて、その債務についての債権者に、帰責事由があった場合
 上記(1)と同じように、当該債権者が、その債務不履行にかんする危険(損失)を、負担することになります(債権者主義。民法536条2項)。

〔事例〕
 事業主が、資金繰りに困り、社員たちに対して、賃金を支払いたくなくなった。そこで、労働法にのっとった交渉をすることなく、勝手に事務所のカギを変え、社員たちが入って仕事をすることができないようにした。
 すなわち、社員たちの「労働を提供する債務」を、事業主(労働を提供する債務についての債権者)が、わざと、提供することができないようにした。
 このときには、事業主(労働を提供する債務についての債権者)が、その危険(損失)を負担することになります。つまり、事業主は、社員たちに対して、契約したとおり、賃金を支払うことになります。
 当たり前といえば当たり前の話ですね。

(3)上記(1)・(2)以外の場合
 その債務についての債務者が、その債務不履行にかんする危険(損失)を、負担することになります(民法536条1項)。

〔事例〕
 自動車の部品工場AとメーカーBが、売買契約を締結した。目的物は、モーター500個。このモーターは、メーカーBの製造する車種のために特化したものであって、部品工場Aしか生産することができない。そのモーター500個について、引き渡しを前に、竜巻が発生。部品工場Aの倉庫は全壊。その倉庫において保管していたモーターは、すべてだめになってしまった。工場も被害を受け、生産停止。
 すなわち、特定物ではない目的物にかんする引き渡し債務が、履行できなくなってしまった。
 このときには、売主である部品工場A(モーター500個の引き渡し債務についての債務者)が、その危険(損失)を負担することになります。すなわち、部品工場Aは、メーカーB(買主)に対して、代金を請求することができなくなります。

3 小括
 以上、述べてきましたとおり、現行民法では、「帰責事由」ということばをつかって、債務不履行にかんする、いろいろな場面を、整理しています。
 こういった整理について、一覧できる別表を作成しました。その別表を、本稿の冒頭に、添付しておきます。当該別表においては、帰責事由ということばを、赤字にしておきました。赤字の数、そして位置からも、債務不履行にかんする規定の整理において、帰責事由ということばが、どれくらい重要な役割を果たしているのかが、分かるのではないでしょうか。
4 備考:担保責任
 なお、債務不履行が問題になる場面については、「担保責任」という規定も、あります(民法561条から570条)。担保責任は、とくに売買そのほか有償契約にかんして、適用・準用されます(民法559条)。
 この担保責任と、上記しました損害賠償請求権・解除権・危険負担との関係については、学説上、争いがあります。いまだ、定説がありません。中間的な論点整理は、そういった争いを解決するための提案も、盛り込んでいます。
 担保責任にかんする現行民法の規定と、改正提案の内容を、それぞれまとめるには、そうとう時間がかかるので、本稿では取り上げません。

第3 現行民法への批判:帰責事由≠故意・過失
 上記第2において述べましたとおり、現行民法は、「帰責事由」ということばをつかって、債務不履行にかんするいろいろな規定の適用場面を整理しています。
 しかし、この「帰責事由」ということばについては、批判があります。批判の内容は、つぎのとおりです。
「旧来の通説は、帰責事由ということばを、つぎのように解釈してきた。故意・過失または信義則上これと同視すべき事由。しかし、帰責事由ということばにかんする、裁判実務における取り扱いは、通説の解釈とは、ちがっている」
 どのようにちがうのか、損害賠償請求権・解除権、それぞれについて、みてみましょう。
1 損害賠償請求権
 損害賠償にかんして、債務者が、その責任を負うかどうか。この点にかんする争いについて、裁判実務においては、つぎのような判断基準があるそうです(註2)。
ア 契約において債務者が負った債務の内容を確認する。
イ その債務が不履行になっているのか確認する。不履行になっていたら、原則、債務者は、損害賠償責任を負う。
ウ 損害賠償責任を免責する事由があるかどうか、確認する。免責事由は、せまい。不可抗力による不履行だった、または、契約において免責条項があった、等。
2 解除権
 債権者が、債務者の債務不履行を理由に、契約を解除することができるかどうか。この点にかんする争いについて、裁判実務においては、つぎのような判断基準があるそうです(註3)。
「要素たる債務が不履行になったら、解除権が発生する」
 これはつまり、「付随的な債務が不履行になっただけでは、解除権は発生しない」ということです。

第4 論点整理における改正提案
1 「帰責事由」の置き換え
 以上、みてきたとおり、裁判実務では、損害賠償請求権についても、解除権についても、「帰責事由」ということばは、使われていません。そこで、論点整理は、改正提案として、「帰責事由」ということばについて、損害賠償請求権・解除権それぞれの裁判実務に即したことばに置き換えるよう、検討すべきだとしています(註4)。
2 危険負担
 改正提案のとおり、「帰責事由」ということばを、べつなことばに置き換えることになったとしましょう。そうなったら、現行民法のように、「帰責事由」の有り・無しによって、債務不履行にかんする規定を区別して適用することが、できなくなります。
 帰責事由があったら、損害賠償請求権・解除権。帰責事由がなかったら、危険負担。こういった区別があったのに、損害賠償請求権・解除権にかんして、「帰責事由」ということばが、それぞれ、べつなことばに、置き換わってしまう。そういった変化から、債務不履行における危険負担の位置づけも、影響を受けることになるのです。
 こういった観点から、改正提案は、危険負担にかんして、つぎのような提案を盛り込んでいます(註5)。
(1)危険負担制度は、廃止する。危険負担制度の果たしていた役割は、解除制度が担うことにする(反対意見あり)。
(2)民法534条1項(上記第2-2-(1))における、危険の移転する時期を見直す。危険の移転する時期を「目的物の引き渡し時」等と明記する(註6)。
(3)民法536条2項の規定していた内容は、存続する(債権者に帰責事由があった場合。上記第2-2-(2))。

第5 今後の流れ
 以上、論点整理における債務不履行にかんする部分について、分析してきました。
 今後、債権法の改正にかんする作業は、つぎのような流れで進んでいく予定とのことです。どのようなかたちにまとまっていくのか、注目ですね。
1 論点整理についてパブリックコメントを募集(2ヶ月間)
2 法制審議会において「中間試案」を作成
3 中間試案についてパブリックコメントを募集
4 法制審議会において「最終要綱案」を作成

□ 註
1 損害賠償請求権と解除権の関係
 解除権を行使しても、債権者は、さらに損害賠償請求権を、行使することができます(民法545条3項)。
 損害賠償は、原則、金銭によってすることになっています(民法417条)。そういうことですから、債権者が、金銭以外の解決方法を望む場合には、解除も検討することになります。
 解除を検討する場合としては、つぎのような事例がありえます。
(1)引き渡した目的物の取り戻し
 売買において、売主が目的物を引き渡したにもかかわらず、買主が、代金を支払わなかった。このとき、売主が「代金を支払わないなら、引き渡した物を返してほしい」と望むのであれば、売買契約を解除して、買主に原状回復(すなわち目的物の返還)を、求めることになります(民法545条1項)。
(2)自分の負っている債務からの解放
 売買において、買主が代金を支払う前に、目的物が売主の不注意により滅失した。
 この場合、売主の負っていた目的物引渡債務は、履行不能により消滅します。そのかわり、損害賠償債務が、発生することになります。
 一方、買主の負っていた代金支払債務は、存続することになります。売主から、目的物を引き渡してもらうことができなくなったにもかかわらず、です。この代金支払債務を免れるためには、契約を解除することが、有効です。
 なお、こういうときには、相殺も有効です。買主から売主に対する損害賠償請求権と、売主から買主に対する代金支払請求権を、相殺するのです。
2 道垣内弘人ほか「債権法改正をめぐって――企業実務の観点から」ジュリスト1392号/有斐閣/2010.1.1-15/24頁・潮見発言。
3 内田貴『債権法の新時代』商事法務/2009.9/96頁。同『民法Ⅱ〔第3版〕』/東京大学出版会/2011.2/107頁。
4 損害賠償請求権について、論点整理・第3-2-(2)(8頁)。解除権について、論点整理・第5-1及び2(13~15頁)。
5 論点整理・第6(17・18頁)。
6 この提案は、すこし、わかりにくいですね。つまりは、こういう意味であるようです。
「債務者が、債権者に、目的物である特定物を引き渡したなら、それ以降に発生した事情により、当事者に帰責事由なく目的物が滅失・毀損したとしても、債務不履行という問題には、ならない」

 以上

2011年4月25日 (月)

【不動産法ノート】中古物件の売買にまつわる登記(理論編)

□ チェックシート
「touki_chuko_baibai.xls」をダウンロード

第1 はじめに
 本稿では、中古物件の売買にまつわる登記について、申請書を作成するにあたって、注意するべき事項を、解説します。注意するべき事項は、チェックシートにして、本稿冒頭に、添付してあります。そのチェックシートの読み方を、解説する。そういうかたちで、説明を進めてゆきます。
 中古物件の売買のなかでも、本稿において、とくに、念頭においている事案は、つぎのとおりです。
「個人と個人との間において、中古の建物と、その土地を売買する」
 この事案は、不動産登記実務においては、ごく基本的なものです。ごく基本的というわけは、土地の形状をいじったり、建物を取り壊したりといったことを、通常、しないからです。つまり、権利の登記だけで、話が済む、ということですね(土地の形状をいじったりすると、「表題登記」というものも関わってきて、話がややこしくなります)。
 なお、本稿で説明する内容は、あくまで、「申請書を作成するにあたっての注意点」(理論編)です。「実際に、依頼を受けた場合に、どのように動いていくべきか」(実践編)は、また別の記事に書く予定です。
 ちなみに、本稿は、そもそものところ、自分のためのおぼえがきです。ほかのひとの参考にもなったらと考え、ブログにアップしました。読者としては、民法・不動産登記法について、あるていど理解のすすんだ、若手司法書士さん・補助者さんを、念頭においています。

第2 関係図
1 関係者
 それでは、まず、中古物件の売買における関係者を、紹介します(添付ファイル「関係図」シート)。
(1)売主
 中古物件を、現在、所有しているひとです。
(2)抹消銀行
 売主が、かつて、その物件を取得するときに、売主に対して、お金(売買代金など)を融資した、金融機関です。なお、金融機関は、銀行とは、かぎりません。信用組合・信用金庫など、そういった融資をする金融機関は、たくさんあります。本稿では、わかりやすさのために、そういったもろもろを含めて「抹消銀行」と呼びます。
 不動産を取得するためのお金。その融資にあたっては、通常、金融機関は、その不動産を、担保にとります。つまり、抵当権を設定します(註1)。
 売る予定の不動産に、抵当権が付いている場合、通常、売主は、その抵当権を抹消することになります。抵当権つきの不動産を買ってくれるひとは、いないからですね。
 抵当権を、抹消する。そのことについては、登記を申請することになります(登記①)。
 なお、売主が、上記融資について、すでに返済を終え、かつ、抵当権についても抹消登記を終えている場合には、抹消銀行は、登場しないことになります。抵当権の抹消登記も、不要です。
(3)買主
 中古物件を、買おうとしているひとです。
 売買の交渉がまとまって、代金の支払いがおわったら、売主から買主に、その土地建物の所有権が、移転することになります(通常、契約上、そういうことになっています)。
 所有権を、移転する。そのことについても、登記を申請することになります(登記②)。
(4)仲介業者
 売主と買主との間をとりもつ業者です。
 売主と買主につき、それぞれ別の業者がつくこともあります。
(5)設定銀行
 買主に対して、中古物件を取得するためのお金を、融資する金融機関です。金融機関が銀行だけではないことは、「抹消銀行」の項目でも説明したとおりです。
 設定銀行は、買主に対して融資したお金について、その中古物件に、抵当権を設定することになります(註1)。
 抵当権を、設定する。このことについても、登記を申請することになります(登記③)。
 なお、買主が、自分自身のお金で、売買代金などを、すべてまかなうこともあります。そういった案件には、設定銀行は、登場しないことになります。抵当権設定登記も、不要です。
2 お金の流れ
 上に述べた当事者のあいだを、お金は、下記のように動きます。
(1)設定銀行が買主に、お金を融資する。
(2)買主が売主に、売買代金を支払う。
(3)売主が、売買代金のなかから、抹消銀行に、融資の残高ぶんを返済する。
 この動きは、通常、1日のうちに終わります。すべての当事者が、一ヶ所にあつまって、そういったお金の処理を済ませるのです。この集まり・処理のことを、「決済」といいます。決済は、通常、金融機関の店舗にて、部屋を一時だけ借りて、行われます。金融機関の店舗なら、お金の振込みが、すぐできるうえに、うまくいったかどうか、確認しやすいからですね。
 司法書士も、もちろん、その決済の場に参加します。司法書士は、決済の場において、登記にかんする必要書類がそろっていることを、確認します。その確認ができたうえで、上記しました送金処理を、はじめる。送金処理がおわったら、司法書士は、すぐ、その足で、登記を申請する。そういった慣行があります。
 そういうことですから、決済の前に、あらかじめ、きちんとした登記申請書をつくっておいたり・必要書類を十分にチェックしておいたりすることが、大切なのです。
3 登記の順序
 これまで、中古物件の売買にまつわる登記が、主に3種類あることを、説明してきました。①抵当権の抹消登記・②所有権の移転登記・③抵当権の設定登記。実際の登記申請も、この順序で行われます。順序が、お金の流れとは、逆になっていることに、注意してください。
 この順序は、法律の視点から考えたうえで、こういうことになっているのです。このことについて、ひとつひとつ説明すると、下記のとおりです。
① 抵当権抹消登記:まず抵当権を抹消してこそ、法律的に問題のない物件を売ったことになる。
② 所有権移転登記:買主に登記の名義が移らないと、抵当権設定登記を申請することができない。
③ 抵当権設定登記:上記②のとおり。所有権移転登記を経たうえではじめて、抵当権設定登記は、申請することができる。
4 小括
 以上、関係図をとおして、中古物件の売買にまつわる登記の種類・順序について、説明してきました。それら登記の申請書を作成するにあたって、注意するべき事項。その事項を整理したものが、冒頭に添付してあるチェックシートです。

第3 チェックシート(基本的な考え方)
 この項目では、チェックシートの読み方について、基本的なところを、説明します。
1 基礎となる書面:登記原因証明情報
 登記申請書を作成するにあたって、基礎とするべき書面は、登記原因証明情報となる書面です。なぜなら、その書面に、こういうことが、のっているからです。
「当事者が、その物件にかんする権利関係を、どのように変動させるのか」
 つまり、登記原因証明情報となる書面には、実体面で、法律関係が、どのように変動するのかということが、のっているのです。
 そのほかの資料や添付書類は、登記にかんする、手続面での真正・公正をはかるためのものです。
 登記手続は、あくまで、実体を登記記録に反映するための手続です。主役は、実体。手続は、脇役です。そういうことですから、登記原因証明情報となる書面に、そのほかの資料・添付書類を照合するかたちで、書類のチェックをすすめてゆくほうがよいでしょう。
 各チェックシートの「基礎となる書面」欄には、その登記について、登記原因証明情報となりうる書面を、例示してあります。
 なお、登記原因証明情報に記載する、当事者の表示(住所氏名または本店商号)および物件の表示は、最新のものであるべきです。
2 登記事項
 上記1においても述べてきましたように、登記原因証明情報となる書面を中心にしつつ、登記申請書に記載するべき事項を、確認してゆくこととなります。
 登記事項には、2種類あります。一般的なもの。そして、権利ごとに特殊なもの。
 一般的なものについては、不動産登記令3条が、列挙しています。法令における、規定のしくみとしては、不動産登記令3条が、不動産登記法18条から、委任を受けているかたちです。
 権利ごとに特殊なものについては、つぎのふたつに記載があります。①不動産登記法の条文。②不動産登記令の別表。
 本稿冒頭のチェックシート「登記事項」欄では、ごく基本的なものを取り上げました。よりくわしくは、「関係法令」欄の条文・別表を参照してください。
3 照合書類
 「照合書類」欄には、登記原因証明情報となる書面に照合するべき書類を、列挙してあります。それぞれの書類について、照合するべき事項も、並べてあります。
(1)くいちがいがある場合
 登記原因証明情報となる書面、そして照合書類。これらすべてについて、書類と書類とのあいだに、照合事項のうち、一ヶ所でも、くいちがいがある場合には、登記が通りません。
 くいちがいの原因が、「前提登記」欄のうち、どれかに当てはまる場合には、その項目に書いてある処置または登記が、必要になります。
 それ以外の場合には、どちらの記載が正しいのか確認したうえで、まちがっているほうを訂正することになります。間違っている書類が公的証明書だったときには、その訂正にかんして、また別な手続きが必要になります。
(2)登記済証・印鑑証明書
 なお、登記済証(登記識別情報)・印鑑証明書については、偽造事件が何度も起こっています。とりわけ慎重な確認が必要です。
4 前提登記
 上記3(1)でも述べましたとおり、書類と書類とのあいだに、くいちがいがある場合には、登記が通りません。
 くいちがいの原因が、「前提登記」欄のうち、どれかに当てはまる場合には、その項目に書いてある処置または登記が、必要になります。
5 登録免許税
 登録免許税の計算方法にかんして、ややこしいものについては、別なシートをつくって、そちらのほうで説明しています(註2)。

第4 その他
1 必要書類一覧
 「必要書類一覧」シートには、本稿およびチェックシートにおいて、説明してきた登記について、必要となる書類を、整理してあります。整理の方法としては、つぎのとおりです。①大項目:登記の種類ごとに分類。②小項目:その登記に関係する当事者ごとに分類。
 お客様にたいして、必要書類をご案内するときに、参考にしてください。
2 参考文献一覧
 「参考文献一覧」シートも付けました。チェックシートにおいて、略称をつかって引用している文献。その一覧です。

□ 註
1 金融機関は、融資にあたって、保証会社を関わらせることがあります。保証会社とは、そういった融資によって、物件を取得するひとが負う債務について、保証をする会社です。
 この場合、抵当権は、保証会社が設定することになります。そのしくみを説明すると、つぎのとおりです。もし、債権に延滞が起こったら、保証会社が、債務者のかわりに、その弁済をすることになる。そして、その弁済した分の金額について、保証会社は、債務者に対して、求償権を取得することになる。その求償権を、あらかじめ担保しておくために、債務者の取得する物件に、抵当権を設定する。
 こういうしくみは、「抹消銀行」についても、「設定銀行」についても、同じです。そういった案件を受任した場合には、「抹消銀行」または「設定銀行」を、「保証会社」と、読みかえてください。
2 軽減措置の有効期間については、とくに注意が必要です。平成23年4月現在、租税特別措置法による軽減措置については、有効期間が、平成23年6月30日までになっています(土地にかんする所有権移転登記についての軽減措置を除く)。
 これら軽減措置の有効期間は、本来、平成23年3月31日まででした。4月1日以降については、通常ならば、租税特別措置法の改正が、あるはずでした。そのなかで、有効期間の更新、または、新たな税率の設定など、必要な処置が、とられるはずでした。しかし、与党と野党との対立により、そういった改正は、いまだ実現していません。そのかわり、「国民生活等の混乱を回避するための法律」が成立。平成23年3月31日までだった有効期間を、平成23年6月30日まで、延長したのです。
 こういった状況ですから、平成23年7月1日からの軽減措置がどうなるのか、注目しておく必要があります。
(参考:国民生活等の混乱を回避するための法律)
http://kanpou.npb.go.jp/20110331/20110331t00022/20110331t000220068f.html

 以上

2011年4月22日 (金)

【不動産法判例メモ】新築建物持分無断転貸事件

最二小判H21.11.27集民232号409頁
http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?hanreiid=38195&hanreiKbn=02

 本件は、借地にかんする、2回にわたる無断転貸について、いずれも、背信行為ではないとして、賃貸借契約の解除が認められなかったという案件です。事案がおもしろいので、紹介します。

第1 事件の概要
 土地の借主が、借地権を、2回にわたり、地主に無断で、転貸しました。そのことを理由に、地主が、賃貸借契約を解除する旨、主張しました。しかし、その解除は、認められませんでした。
 最高裁が、解除を認めなかった、その主な理由は、つぎのとおりです。
1 無断転貸といっても、借地権のうち10分の1程度を転貸しただけだった(第1転貸)。
2 転貸の相手は家族だった(第1転貸・第2転貸)。
3 転貸の相手は、それ以前から、その土地に住んでいた。だから、転貸の前後で、その土地の利用関係が、変わったわけではない(第1転貸・第2転貸)。

第2 事件の原因
1 第1転貸
 第1転貸がおこった、原因。それは、借主の新築した建物の持分割合が、予定とは違っていたことでした。
 建物を新築することにつき、地主は、あらかじめ、承諾しては、いました。しかし、実際、建物ができあがってみると、その持分割合が、承諾していた内容と、違っていたのです。
 このことは、実務の教訓になりますね。借地上の建物を新築するについては、地主から承諾をもらうまえに、誰がどれくらい持分を有することになるのか、きちんと詰めておくべき。そういうことでしょう。
 新築建物の持分割合については、下記の事項を考慮することになるのではないでしょうか。
(1)新築建物にかんする所有権の帰属についてのルール(分野としては建築請負契約関係)
(2)新築建物における表題部所有者の記載にかんするルール(表題部所有者が建物の所有権保存登記を入れることになります)
(3)建物の新築にかんする税務(出費割合と持分割合の関係によっては税金が発生する可能性があります)
 なお、第1転貸については、地主は、当初、問題にしていなかったようです(判決理由4-(1))。
2 第2転貸
 第2転貸の原因は、財産分与による建物持分の譲渡です。その譲渡に伴い、借地権の持分も、移転しました。この移転について、地主の承諾を得なかった。事実関係としては、単純ですね。
 地主は、この転貸を、主な理由として、解除を主張していたようです(判決理由同上)。その理由を推測すると、つぎのとおりです。
(1)移転した持分が大きかった(10分の7)
(2)転貸について全く相談がなかった(第1転貸については相談があった。承諾料も400万円もらっていた。結果として持分割合が少し違っていたのみ)

第3 備考
 なお、本件においては、第1転貸にかんする交渉にて、地主が、承諾料を、400万円、もらっています。だいぶ高いですね。
 そのうえ、利用状況が、転貸の前後で、とくに変わっていない。
 このことも、最高裁の判断に、影響しているのではないでしょうか。

 以上

2011年3月13日 (日)

【分析・論証】過払い判例/悪意の受益者 編

□ 論証例

「demonstration_kabarai_akui.txt」をダウンロード

□ 主に取り上げる判例

判例1 最二小判H19.7.13民集61巻5号1980頁
http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?action_id=dspDetail&hanreiSrchKbn=02&hanreiNo=34943&hanreiKbn=01

判例2 最二小判H21.7.10民集63巻6号1170頁
http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?action_id=dspDetail&hanreiSrchKbn=02&hanreiNo=37822&hanreiKbn=01

第1 はじめに
 過払い金返還請求訴訟には、債務整理業務に携わっているかぎり、ほとんど必ずといっていいほど、取り組むことになります。
 当該訴訟には、論点がいくつかあります。本稿では、それら論点のうち、「悪意の受益者」を、取り上げます。
 過払い金返還請求訴訟は、不当利得返還請求訴訟です。したがって、貸金業者が悪意であるか・善意であるかによって、結果に差が出てきます。取り戻すことのできる金額が、利息5%を付けた全額か、それとも現存利益のみか、です(民法703条・704条)。
 そこで、本稿では、悪意の受益者にかんする判例を、分析。そのうえで、請求側が勝訴するための論証例・争い方を、紹介します。

第2 背景事情
 悪意の受益者にかんする判例を理解するには、利息制限法および貸金業法について、これまでの経緯を把握しておくことが必要です。以下、おおざっぱに紹介します(註1)。
1 最大判S43.11.13民集22巻12号2526頁
 もともと、判例は、利息制限法所定の利率を超えた支払利息につき、返還請求を認めていました(上記S43.11.13判決。註2)。
 この判例は、最高裁が利息制限法1条2項を骨抜きにしたものとして、有名です。当該条項は、こう定めていました。所定利率を超えた利息でも、債務者が任意に支払うのであれば、有効なものとして、受け取ってよい。しかし、最高裁は、当該条項の適用できる場面を、解釈によって、なくしました(S39.11.18判決。註3)。S39.11.18判決をふまえ、上記S43.11.13判決が、所定利率を超えた支払利息につき、返還請求を認めたのです(註4)。
2 貸金業の規制等に関する法律(昭和58年)
 しかし、国会が「貸金業の規制等に関する法律」を立法(以下、貸金業法といいます)。「みなし弁済」という制度が、導入されました。その内容は、こういうものです。貸金業者は、下記の要件を満たせば、利息制限法所定の利率を超えて、利息を受け取ってよい(同法43条1項)。
(1)法定事項を記載した、契約書および受取証書を、債務者に交付すること。契約書の法定記載事項は、同17条1項。受取証書については、同18条1項。
(2)債務者が、任意に支払うこと。
 この規定の内容は、要するに、こういうことです。債務者が、契約書および受取証書から、自分で利率等を把握できるようにする。そのうえで、それでも任意に、利息制限法を超えた利率で利息を払うというのであれば、その利息は、有効なものとして、受け取ってよい。
 つまるところ、みなし弁済規定は、上記利息制限法1条2項を、すこし要件を厳しくしたうえで、復活させるものでした。国会が、最高裁の判例を、くつがえしたかたちです。
 こういった規定をもつ、貸金業法。その施行によって、全国で多重債務者が増加しました。平成14年には、個人破産事件数が全国で20万件を超えました(註5)。
3 最二小判H18.1.13民集60巻1号1頁
 そういった社会問題の起こっているなかで、最高裁は、ふたたび、法律を骨抜きにする判断を示しました(上記H18.1.13判決。註6)。みなし弁済規定を、適用することが、できなくしたのです。その判断の内容は、こういうものです。
「貸金業者は、債務者との契約において、期限の利益喪失特約というものを、定めている。期限の利益喪失特約とは、こういう特約である。債務者が、元本または約定利息の支払いを怠った場合には、借入残高を一括で支払うこととする。こういった特約がある場合、債務者としては、利息制限法所定の利率を超える利息でも、支払わざるをえない。したがって、債務者が、利息制限法所定の利率を超える利息について、任意に支払ったとは、いえない。任意に支払っていないのであるから、みなし弁済規定は、適用されない。みなし弁済規定が適用されないのであるから、利息制限法所定の利率を超えた利息の受領は、無効となる」
 この判決が出た結果、ほぼすべての貸金業者について、みなし弁済規定の適用が、認められなくなりました。したがって、ほぼすべての取引について、利息制限法所定の利率で、計算をしなおすことができるようになりました。そして、再計算の結果、過払い金が発生していた場合には、その返還を請求することができるようになりました。
 こういった経緯から、全国で、貸金業者に対し、過払い金返還請求が殺到。この殺到によって、貸金業者は、経営上、破壊的なダメージを負ったと言われています(註7)。武富士の倒産が、その代表的な例です。
4 貸金業法の改正
 以上、述べてきた状況を受け、貸金業法は、改正されました。その改正によって、みなし弁済制度も、廃止されました(註8)。

第3 判例分析
 以上の経緯をふまえ、悪意の受益者にかんする判例を分析しましょう。
1 結論
 はじめに、結論。悪意の受益者にかんして、最高裁が示している判断枠組は、こういうものです。
(1)みなし弁済規定の適用が認められない場合には、貸金業者は、悪意の受益者であると推定される(判例1)。
(2)貸金業者が悪意推定を覆すためには、みなし弁済規定の適用があるとの認識を有しており、かつ、そのような認識を有するに至ったことについて、やむを得ないといえる特段の事情(以下、認識及び特段の事情という)があったことを、立証しなければならない(判例1)。
(3)認識及び特段の事情があったといえるためには、貸金業者が、下記の事実を、主張及び立証しなければならない(判例2)。
ア みなし弁済規定の適用要件を充足すること(期限の利益喪失特約下の支払の受領であることを除く)。
イ 充足しない適用要件がある場合には、その適用要件との関係で、貸金業者が悪意の受益者と推定されない、そういった評価の根拠となる事実。
2 分析・読み替え
 上記結論について、実務の視点から分析して読み替えると、こういうことになります。
(1)貸金業者は、みなし弁済規定が適用されることを主張及び立証しないかぎり、悪意の受益者であるものとして推定される。
(2)悪意推定を覆すためには、まず、こういった事実を、主張及び立証しなければならない。
ア 債務者に契約書および受取証書を交付した事実。
イ 上記アの書面について、法定事項を記載していた事実。
ウ 債務者が利息を任意に支払っていた事実(期限の利益喪失特約下の支払の受領であることを除く)。
(3)上記(2)の事実のうち、主張および立証できないものがある場合には、つぎの事実を、主張および立証しなければならない。それでもなお、貸金業者が、みなし弁済規定の適用があると認識していたことは、やむをえない。そういった評価の根拠となる事実。
3 コメント:悪意推定の強固さ
 上記2の分析から、こういうことが、わかります。貸金業者は、かなり強固に、悪意の受益者として、推定されることになる。以下、くわしく解説します。
(1)悪意推定の原則
 最高裁は、原則、貸金業者を、悪意の受益者として、推定するものとしています。その論法について、検討してみましょう。
 まず、貸金業者は、みなし弁済規定の適用を、主張および立証しないかぎり、悪意の受益者として、推定されます。
 しかし、その主張および立証は、無理です。
 現在、ほとんどの貸金業者は、みなし弁済の抗弁にかんする主張および立証を、あきらめています。最初から、してきません。ですから、みなし弁済規定は適用されないことになります。したがって、貸金業者は、悪意の受益者として、推定されることになります。
 かりに、貸金業者が、みなし弁済の抗弁を主張して、契約書および受取証書を提出してきたとしましょう。それらには、期限の利益喪失特約が、記載されています。その記載にもとづいて、H18.1.13判決を根拠に、「債務者の任意による支払い」という要件が、否定されることになります。要件が充足されないのですから、みなし弁済規定は、適用されないことになります。みなし弁済規定が適用されないのですから、貸金業者は、やはり、悪意の受益者として、推定されることになります。
 このように、どうしても、貸金業者は、悪意の受益者として、推定されることになっているのです。
(2)悪意推定を覆すことの難しさ
 さらに、貸金業者が、悪意推定を覆す、そのための主張および立証は、かなり難しいです。結局のところ、貸金業者は、こういった事実にかんする主張および立証で、つまづきます。
「債務者に対して、貸付・返済のつど、契約書または受取証書を交付していた事実」
 とくに難しい立証は、受取証書を交付した事実にかんするものです。だいたいの貸金業者は、ATMにおいて、貸付・返済を行っていました。貸付・返済のたびに、受取証書を、債務者へ、一方的に交付するだけ。そういう仕組みでしたから、受取証書の交付にかんする、具体的な証拠が、貸金業者側には、なにも残っていないのです。こういった事情から、貸金業者は、悪意推定を覆すための主張および立証が、十分にできません。したがって、貸金業者は、悪意の受益者として推定されたまま、判決をむかえることになるのです。
4 論証例
 以上の分析をふまえ、論証例を、起案しました。テキスト形式にして、本稿冒頭に、添付してあります。

第4 訴訟の実際
 以上、みてきたように、「悪意の受益者」という論点については、請求側が、かなり有利です。
 しかし、貸金業者は、悪意推定を免れるために、様々な主張および証拠を、提出してきます。そういった主張等により、悪意推定が覆ってしまった事件も、いくつかあります(註9)。そういうことですから、貸金業者からの主張および立証については、油断することなく、きちんと反論していく必要があります(註10)。
 以下、よくある貸金業者からの主張と、それに対する反論方法を、紹介します。頻度が多い・重要度が高いものから、述べてゆきます。
1 立証の程度
 まずは、立証の程度にかんする、原則を、おさえましょう。
 争いのある事実を認定するために必要な、立証の程度。その程度について、判例は、このような基準を示しています(註11)。
「通常人が疑いを差し挟まない程度に真実性の確信を持ちうるものであることを要する」
 この基準は、貸金業者が悪意推定を覆すために必要な主張および立証にも、もちろん当てはまります。すなわち、貸金業者は、上記第3-2-(2)・(3)において述べた事実を、こういった程度に、主張および立証しなければならないのです。
 この原則論をふまえて、貸金業者からの主張に、反論していくことになります(註12)。
2 業務態勢構築
「契約書および受取証書を、債務者に対して交付する。そういった態勢を、当社は十分に構築していた」
 こういった主張が、よくあります。
 まず、この主張に対しては、不知としましょう。
 くわしく反論するのであれば、下記のような指摘をすることができます。
(1)本件原告に対して、契約書および受取証書を交付したこと。そういった具体的な事実を、主張および立証しないかぎり、悪意推定を覆すに足る主張および立証があったとは、いえない。
(2)もし、そういった業務態勢の構築があったとしても、その事実から直ちに、つぎの事実を推認することはできない。被告が本件原告に対して、契約書および受取証書を交付した事実。
(3)さらにいえば、である。仮に、一般的な業務態勢の構築から、直ちに、債務者に対する契約書および受取証書の交付を推認することとする。その場合、実際には、債務者に対して、契約書および受取証書が交付されていなかった案件であったとしても、貸金業者の悪意推定が覆ることとなってしまう(債務者に対する契約書および受取証書の交付があったこととなってしまう)。このような事実認定の手法は、経験則に反する、違法なものである。
3 サンプル
「契約書および受取証書のサンプルを提出する。これらの書面を、当社は、原告に対して、交付していた」
 この主張に対しては、否認しましょう。
 反論としては、こういったことが言えます。
(1)上記2-(1)と、同じことが言えます。
(2)なおかつ、被告の提出してきた契約書および受取証書が、原告との取引当時、実際に存在したことを証する、補助証拠はない。
4 当時の見解
「原告との取引当時、行政指針や学説において、こういう見解があった。そういった根拠から、当社は、みなし弁済が成立するものと考えていた」
 この主張は、貸金業者の提出してきた契約書等に、不備があった場合に、よく出てきます。論点としては、上記第3-2-(3)にかんするものですね。
 この主張に対しては、不知としましょう。
 反論としては、下記のとおりです。
「仮に、本件取引当時、そのような行政指針や学説が実際に存在していたとしても、被告がそれらを認識していたとは限らない」
5 悪意推定の覆った裁判例
「悪意推定を覆した裁判例として、こういうものがある。本件においても、このように判断するべきである」
 この主張に対しても、不知としましょう。
 裁判例とは、下級裁判所による判決・決定等のことです。裁判例には、ほかの裁判所に対する、拘束力は、ありません。最高裁判所の判決・決定等だけが、ほかの裁判所に対する、拘束力を、持ちえます(すなわち、判例となりえます)。そういうことですから、脅威を感じる必要は、ありません。
 反論としては、下記のような論法をとることができます。
(1)その裁判例は、法令および判例の趣旨に反している。すなわち、法令および判例の解釈を誤っている。
(2)その裁判例は、誤った事実認定に基づいたものであり、違法なものである。

□ 註
1 くわしくは、小野秀誠「利息制限法違反の効力」内田貴ほか『民法の争点』有斐閣/2007.9/191頁。
2 最大判S43.11.13民集22巻12号2526頁
http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?action_id=dspDetail&hanreiSrchKbn=02&hanreiNo=55025&hanreiKbn=01
3 最大判S39.11.18民集18巻9号1868頁
http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?action_id=dspDetail&hanreiSrchKbn=02&hanreiNo=53000&hanreiKbn=01
4 裁判所が、このような解釈をとってよいのか。そういった問題もあります。この問題について論じている文献のうち、手軽に読めるものとして、小粥太郎『民法の世界』商事法務/2007.10/202頁。
5 昭和61年の個人破産事件数は、約1万2000件でした。くわしい推移については、山本和彦『倒産処理法入門』〔第3版〕有斐閣/2008.12/114頁。
6 最二小判H18.1.13民集60巻1号1頁
http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?action_id=dspDetail&hanreiSrchKbn=02&hanreiNo=52404&hanreiKbn=01
7 清水純一「「過払い金返還請求」の今後と消費者金融業界」週間金融財政事情61巻37号28頁/金融財政事情研究会/2010.10.4。
8 くわしい改正内容については、宇都宮健児『多重債務の正しい解決法』花伝社/2007.11。
9 たとえば、東京高判H22.1.15判例タイムズ1322号196頁。
10 悪意の受益者にかんする主張および立証について、くわしく整理・検討したものとして、澤野芳夫ほか「過払金返還請求訴訟における実務的問題」判例タイムズ1338号15頁/判例タイムズ社/2011.3.1。
11 最二小判S50.10.24民集29巻9号1417頁
http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?action_id=dspDetail&hanreiSrchKbn=02&hanreiNo=54204&hanreiKbn=01
12 なお、事実認定にかんする攻防のためには、事実認定論を学習しておくことが、不可欠です。司法書士むけに書かれたテキストとして、田中豊『事実認定の考え方と実務』民事法研究会/2008.3。

 以上

2011年3月 7日 (月)

【不動産法判例メモ】「余りにも不注意な」不実登記事件

最一小判H18.2.23民集60巻2号546頁
http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?action_id=dspDetail&hanreiSrchKbn=02&hanreiNo=52380&hanreiKbn=01

 本判決は、不動産登記と権利外観法理にかんする、あらたな判断枠組を示したものです。
第1 公示の原則
 日本の不動産登記制度においては、公示の原則が、採用されています。公示の原則とは、おおざっぱにいえば、こういうものです。自分で自分の権利を登記しないかぎり、その権利を第三者に主張することはできない。
 公示の原則を、第三者を保護する方向へ、もっとすすめたものとして、公信の原則があります。実体に合致しない登記であっても、その登記を信頼したうえで、第三者が取引をした場合、その第三者は、その不実登記に記載されているとおりの、権利を取得することができる。そういう原則です。この原則は、日本では、採用されていません。つまり、第三者が不実登記を信頼して、取引をしたとしても、その不実登記に記載されているとおりの権利を取得することは、原則として、できないことになっているのです。
第2 権利外観法理
 しかし、それでは、第三者の保護として、不十分なきらいがあります。そこで、判例は、権利外観法理をつかって、第三者を保護してきました。権利外観法理とは、こういうものです。実体にそぐわない、権利の外観を作出した者は、その外観を信頼した第三者に対して、その外観が実体にそぐわないことを、主張することができない。
 民法94条2項や110条は、権利外観法理のあらわれだと言われています。そこで、判例も、これらの条項をつかって、第三者を保護してきています(判例群の整理については、四宮和夫ほか「民法総則」(第8版)208頁以降がくわしいです)。
第3 本判決の意義
 本判決は、これまでの判例群の判断枠組から、あらたな一歩を踏み出しました。
 これまでの事案のパターンは、こういうものでした。真の所有者が、不実登記について、「作出に積極的に関与した」または「その存在を知ったけれども黙認した」。
 しかし、本判決の事案は、こういうものです。真の所有者が、「余りにも不注意だった」ので、不実登記が作出された。具体的には、こういうことです。真の所有者は、ふだんから、他人に登記済証・印鑑証明書を預けていた。そのうえ、不実登記にかんする申請書について、他人が目の前で、自分の実印を押しているのに、その内容を確認することもなかった。
 こういった「余りにも不注意だった」事案にも、権利外観法理は適用できる。本判決は、そういった判断を示しました。
第4 理論構成
 本判決の理論構成は、こういうものです。まず、民法94条2項(虚偽表示)を類推適用する。しかし、それでは足りない。94条2項は、外観の作出について、「積極的な関与」または「黙認」を、必要としています。
 そこで、民法110条(表見代理)も、あわせて類推適用。真の所有者が、「余りにも不注意だった」事実を指摘。余りにも不注意だったから、他人がほしいままに不実登記を作出することができた。この経緯を、110条が本来適用される場面である、代理人が権限を逸脱した場面と同視しました。
 この同視によって、94条2項にかんする、上記要件の問題を解決。真の所有者が「余りにも不注意だった」場合にも、権利外観法理が適用できる。そういう理論構成を実現しました。ただし、110条に付いてくる要件として、第三者には、無過失であることを要求することになりました。
第5 コメント
1 理論構成
 見事な理論構成ですね。これまでの権利外観法理にかんする判例群では、解決できない事案について、基礎理論をうまく応用しています。
2 問題点:解釈の限界
 あえて問題点を指摘するとしたら、こういった類推解釈が、どこまで許されるのかということです。
 本判決は、権利外観法理を念頭において、その実現のために94条2項・110条を類推適用するかたちで、判断を示しています。
 しかし、本来、裁判所が判断の根拠とすべきものは、法律の条文です。その条文から、すこし、離れすぎている観があります。いくら類推解釈とは言っても、です。条文から離れた解釈が、類推解釈として、どこまで許されるのか。そういったことも、本判決にかんして、考えるべき問題です。
3 実務の視点
 なお、本判決は、司法書士実務からみても、参考になります。本件のように、印鑑証明書や登記済証を他人に丸投げしているひとが、やはり、いるんですね。実印・印鑑証明書つきの委任状をもって、他人が登記を依頼してきても、本人の意思を確認する。その重要さを感じます。

 以上

2011年3月 3日 (木)

【会社法判例メモ】退職慰労金返還請求事件

最二小判H21.12.18日裁判集民232号803頁
http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?action_id=dspDetail&hanreiSrchKbn=02&hanreiNo=38280&hanreiKbn=01

第1 判決の意義
1 従前の判例
 退職慰労金にかんして、これまでの判例は、こういった判断を示してきました。原則として、退職慰労金は、定款の定めまたは株主総会決議に基づいて、支給しなければならない(会社法361条1項)。定款の定めまたは株主総会決議に基づかない、退職慰労金の支給は、無効である。したがって、会社は、無効なのに支給された退職慰労金について、不当利得として返還を請求することができる。
・最二小判昭和56.5.11裁判集民133号1頁
・最二小判平成15.2.21金融法務事情1681号31頁
2 本判決
 本判決では、定款の定めも・株主総会決議もなかった退職慰労金について、上記判例のとおり、無効としました。そのうえで、会社からの不当利得返還請求が、信義則に反し、または、権利の濫用にあたる可能性があるとして、事件を原審に差し戻しました。
 本判決が注目した事実は、下記(1)のとおり。これらの事実から、本件取締役が、本件退職慰労金を、自分が受け取っていいもののように認識したことは、やむをえないとしています。
 さらに、差し戻し審で審理判断するべきとした事実は、下記(2)のとおりです。代表取締役の認識や、退職慰労金を支給することの妥当性。それらにまつわる事実です。
(1)本判決が注目した事実
ア この事件の起こった会社では、退職慰労金の支給について、いつも、こういった手続きがとられていた。株主総会は、開催しない。代表取締役(99%株主)が、退職金について決裁。その決裁に基づいて、退職慰労金が支給される。
イ 本件では、上記代表取締役が、退職した取締役に対し、退職金を支給しない意向を告げた。
ウ 取締役は、本件会社にある内規のとおり、退職慰労金を支払うよう、弁護士を通して内容証明を送った。
エ その10日後、退職慰労金が送金された。
オ 本件退職慰労金につき、代表取締役から返還請求があったのは、送金から1年ちかく経ったあとだった。
(2)差し戻し審で審理判断するべきとした事実
ア 代表取締役が、本件退職慰労金の送金を、その直後に認識していたか。
イ 本件取締役の業績
ウ 上記事実が認定されたとして、それでもなお本件取締役に退職慰労金を支給しない合理的な理由があるか。

第2 コメント
(1)一般条項
 本判決からは、信義則、権利の濫用など、一般条項を積極的に使っている印象を受けます。反対意見にもあるとおり、そういった条項を使うのは、控えめにするべき。それが、一般的な理解です。それでもなお、最高裁が、本件において、一般条項を使ったのは、どういう判断からだったのか。それが気になります。
(2)事案の特徴
 本判決における事案の特徴として、退職慰労金がすでに支給されているということがあります(上記昭和56年判決・平成15年判決は、取締役が、まだ支給のない退職慰労金を請求したもの)。
 さらに、本件会社は、民事再生手続の開始決定を受けている。
 こういった事実関係から考えると、本件において、退職慰労金にかんする返還請求を認めるかどうかは、下記のような利害に影響してきます。
 認めた場合、5000万円弱の金銭が、本件会社に戻る。それは、債権者たちの引当財産になる。
 認めなかった場合、債権者たちの引当財産は、その分、少なくなる。そのかわり、取締役は、老後の生活資金等が確保できる。
 以上、まとめたら、こういう選択になる。おそらく多数いるであろう債権者たちに、それぞれ、小さな負担をさせるか。それとも、ひとりしかいない本件取締役に、大きな負担をさせるか。結局、倒産した会社にまつわる大きなお金を、だれに配分するべきか、という選択になるわけですね。
(3)本判決の評価
 そういった選択になることを念頭において考えたら、本判決は、原則を固持することなく、柔軟な判断基準を示した、支持できるもののように感じます。しかし、退職慰労金の支給にかんする原則は、そのぶん、法的安定性をうしなうことになる。したがって、本判決は、この事案かぎりの、事例判決となる見込みが高いですし、そう考えるべきでしょう。

 以上

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